「九戸政実」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Dr jimmy (会話 | 投稿記録)
34行目:
 
=== 九戸政実の反乱 ===
* 詳しくは「[[{{Main|九戸政実の乱]]」を参照の事。}}
 
天正14年([[1586年]])には信直に対して自身が南部家の当主であると公然と自称するようになる。このような政実の姿勢は天正18年([[1590年]])の[[豊臣秀吉]]の「[[奥州仕置]]」後も変化はなく、ついには天正19年([[1591年]])1月、南部氏の正月参賀を拒絶し、同年3月に5000人の兵力をもって挙兵した。
 
42 ⟶ 41行目:
同年9月1日、討伐軍は九戸氏所領への攻撃を開始する。怒涛の勢いで迫る討伐軍は翌9月2日に政実・実親の籠る[[九戸城]]も包囲攻撃を開始。善戦した九戸政実であったが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、4日に出家姿で九戸討伐軍に降伏した。
 
豊臣秀次の陣へと引き出された政実・実親兄弟らは死を覚悟しており従容として斬首された。そして女子供を含む九戸一族も斬殺され[[九戸氏]]は滅亡したのだが、九戸政実の実弟・[[中野康実]]の子孫が中野氏を称して代々盛岡[[八戸氏]]、[[北氏]]と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」重臣の地位にあっ一つとして続いた。
 
== 九戸政実が登場する作品 ==