「自作パソコン」の版間の差分

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==自作パソコンの流通史==
===1990年代===
日本ではPC/AT互換機は国内大手電機メーカーの独自アーキテクチャのパソコンと比べて割安だったが、当初はアメリカなどから組み立て[[キット]]を個人輸入するしか入手の術はなかった。しかし、時が経つにつれて[[秋葉原]]に「DOS/Vショップ」が登場し、店舗ごとにパーツの輸入を手掛ける様になった。これにまず最初に飛びついたのは、ホビーユースでは『[[DOOM]]』のような海外製ゲームの[[マニア]]ビジネスユースでは『[[Microsoft Multiplan]]』や『[[Lotus 1-2-3]]』のような英語ソフトを駆使する国際派のビジネスマンであった。そして、その様な時代を販売側で先取りした組織の1つに当時教勢拡大を図っていた[[新興宗教]]・[[オウム真理教]]があり、同教団が事実上経営するパソコンショップ・[[マハーポーシャ]]の周辺では同店が動員したチラシ配り部隊が歩道上でパフォーマンスを繰り広げながら闊歩していた。
 
日本におけるPC/AT互換機普及の起爆剤となったのは、1995年11月23日の『[[Windows95]]』日本語版の発売である。そのブームを見越してまず参入したのは、[[ソフマップ]]などのゲームソフト販売や国内大手電機メーカーのパソコン・関連商品の販売を中心としたショップや、元々パーツショップ的な一面を持つ[[電子部品]]や[[アマチュア無線]]のショップからの転換店などであった。
 
その後、『Windows95』のブームの効果は大きく、それからほどなく秋葉原や[[日本橋 (大阪市)|日本橋]]の電気街では世界中から自作パソコン向けの部品を輸入する店舗が相次いで登場、中小の販売店が廻りきれないほど林立し<ref>[http://akiba-pc.watch.impress.co.jp/hotline/991225/etc_kouki.html 編集後記:'99年を振り返って]</ref>「パソコンの街」として大いに栄えた。自作パソコン全盛期の秋葉原電気街では小さなショップでも1日に1000万円以上の売上を上げることもあったという<ref>[http://plusd.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0705/31/news076.html ITmedia +D PC USER:5年後のアキバを歩く 第5回:「いまがフツーなんだと思う」――閉店したPCショップ元店長が語るアキバの未来]</ref>。メモリ相場の乱高下など自作パーツの激しい値動きの中を、価格調査の為に秋葉原中を巡回するマニアと有名無名パソコンショップのチラシ配りのスタッフが入り乱れた。また、自作パソコンの早組み立てを競う賞金を懸けたコステストが開催されるなど<ref>[http://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980727/kumi.htm パソコン組立全日本決勝、優勝タイムは13'58!]</ref>、とにかく電気街では売り手も書い手もパソコン世代の若者たちの活気が満ち溢れていた。技術の進歩も激しく、新製品や[[バルク品]]など品質・性能が不確かな物を含めてマニアの[[人柱]]達が体当たりで試用し<ref>[http://akiba-pc.watch.impress.co.jp/hotline/980131/p5sdb.html Socket 7マザーボードも外部100MHz対応の時代に突入!]</ref>、その結果をインターネットの[[電子掲示板]]などに報告してノウハウを蓄積し、コミュニケーション活動を活発に行った。[[カカクコム|価格.com]]を始めとする[[価格比較サイト]]で最安値を徹底的に出す販売戦略で知られた[[PCサクセス]]が起業したのもこの頃である。また、[[OA機器]]販売店の中からも、自作パソコンと同様の形で自社内でオリジナルのパソコンを組み立てて顧客に納品し、オフィス向け[[複合機]]の様に保守・メンテナンスまでをトータルに手掛けるところが現れ、これらの中にはパソコンショップ的な形ではないが個人客へのパーツ単体での販売を始めたり、[[サイドビジネス]]としてホビー性の強い自作パソコンのショップを手掛けるものが現れた
 
この1995年が他社とは別の意味で大きな転機になった店舗もある。上述のマハーポーシャであった。一連の[[オウム真理教事件]]が発覚したことから、同教団系のパソコンショップは世間の厳しい世間の注目視線と警察から厳しい徹底的なマークを受ける様になり衰退してゆく。その後も店舗名を変えて立て直そうとしたがうまく行かず、結局は20世紀の間に姿を消した。
 
他方では、この時期、1990年代半ばからは[[世田谷区]]で創業した[[クレバリー]]や[[埼玉県]][[春日部市]]で創業したパソコンショップにルーツを持つ[[マウスコンピューター]]の様に、集客力や「電気街のパソコンショップ」というネームバリューを求めて電気街へと参入するショップも幾つか現れたが、それの中からは経営面での一線を超えた薄利多売攻勢を仕掛けるものも現れ、これはパソコン業界に[[価格破壊]]の波を起こす。しかしこれは一方で、薄利多売と低粗利率の業界体質という禍根も長く残すこととなった<ref name="usersside">[http://plusd.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0705/07/news040.html 5年後の秋葉原を歩く 第3回:「自作PCに未来はない」]</ref>。大阪でも地元資本の[[スタンバイ (パソコンショップ)|スタンバイ]]が台頭し、東京資本のソフマップと壮絶な価格競争を繰り広げるなど、似たような状況があった。
 
1990年代後半から[[サードウェーブ|DOS/Vパラダイス]](現ドスパラ)、[[ピーシーデポコーポレーション|PC DEPOT]]、[[T-ZONE]]、[[ユニットコム|パソコン工房]]が全国各地の地方の中核都市を中心に空き店舗を活用したチェーン展開を本格化し、他にも[[アプライド]]などのローカルチェーンが登場した。しかし、これらの取り扱いの中心は完成品パソコンやいわゆる[[売れ筋]]パーツであり、地方都市で特殊なパーツを入手するには[[通信販売]]に頼るより他無かった。この様なショップブランドパソコンの[[EMS (製造業)|EMS]]([[OEM]]供給元)として[[ソーテック]]が台頭し、製品をこれらのパソコンショップの[[プライベートブランド|ショップブランド]]と自社ブランドの二方面で展開させるが、1990年代後半に自社ブランドで展開した当時の親会社・韓国の三宝コンピュータ(トライジェム)製パソコン製品を巡る諸問題や脆弱なユーザーサポートでつまずき、市場とユーザーから強烈な不信を買ってしまう。ただし、当時はパソコン自体がまだ成長産業だったこともあり企業としての伸びは続いており、同社はその後[[2000年]]9月に[[ジャスダック]]に株式上場を果たしている
 
この頃、[[家電量販店]]においても一部で自作用パーツやホワイトボックスパソコンの取り扱いが始まったが、パソコン以外でも多種多様な製品を取り扱う大手電機メーカーとの総合的な取引関係や、高性能化した[[販売時点情報管理]]システム(POS)と連動した人事考課システム<ref group="注釈">単なる商品の売れ筋・死に筋だけではなく、「どの従業員が接客した顧客がどのメーカーのどの製品を幾らで購入し、どれだけの利益が出たか」などという詳細な販売管理が可能になり、接客担当した客の購入単価や利益額といった従業員の販売実績が人事考課に反映できるようになった。</ref>の導入、当時はパーツメーカーやホワイトボックスパソコンの業界に安定した商品の大量供給能力を持つ企業や販社がまだ育っていなかったことなどの事情もあり、販売面ではより販売単価の高く製品供給能力も確実な大手電機メーカーのパソコンセットよりも後回しにされがちで、自作パソコン関連商品やホワイトボックスパソコンの置かれた販売環境は恵まれたものではなかった。
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地方都市でもPC DEPOTやパソコン工房の出店は続いたが、T-ZONEは[[大川功|当時の親会社の創業者]]の死去などの影響も重なり経営が迷走し、やがて長い凋落に陥ってゆく<ref group="注釈">[[T-ZONE#迷走する経営、事業の縮小]]を参照。</ref>。また、[[フレッツISDN]]以降のインターネット常時接続サービスの普及によって、通信販売のインターネットへの比重が高まっていったことを背景にweb通販が急激に台頭・充実し、それまで店頭小売を行なっていたパソコンショップでも通信販売を主体・専業に切り替えるケースや、パソコンパーツ販売以外に業態転換するケース<ref group="注釈">たとえば、上述の[[T-ZONE#閉鎖した店舗|T-ZONEの上尾店・静岡店]]は、T-ZONEの看板を下ろした後にそれぞれ無線の機器・パーツ専門店に転換している。</ref>も相次いだ。
 
この時期、[[ソニー]]のようなナショナルブランドパソコンが低迷してゆく一方で、ホワイトボックスの組み立てと直販メーカーの大規模化・産業化が進む。[[デル]]のシェアが一時的に急伸し、[[BTO]]や[[ホワイトボックスパソコン]]が急激に伸長した。パソコン専門店のBTOも好調だったが、2004年、それまで様々なホワイトボックスパソコンメーカーの製品を扱ってきた[[ヤマダ電機]]が[[KOUZIRO|フロンティア神代]]を子会社化しこの方面を一本化した。この家電量販店業界最大手の本格参入という事態により、既存の専門店はその専門性の度合いを問われた<ref>[http://biz.bcnranking.jp/article/distribution/0404/040419_79400.html パソコン専門店、家電量販店 BTOメーカーに変貌]</ref><ref>[http://biz.bcnranking.jp/article/distribution/0411/041101_84351.html パソコンショップ “専門性”強化が急務]</ref>。量販店も大規模化し、ソフマップ(2003年度38店舗、秋葉原17店舗)<ref>[http://guide.sofmap.com/corporate/ir/pdf/22annualreport040705.pdf 第22期事業報告書]</ref>やT-ZONE「本店」(3775平方メートル)や[[ラオックス]]「ザ・コンピュータ館」(2725平方メートル)<ref>[http://www.nikkeibp.co.jp/archives/092/92467.html ヨドバシカメラが錦糸町店を4月にオープン--売り場面積は約2000坪]</ref>と比べても数倍の販売規模となる[[ヤマダ電機]](2003年度は直営193店舗)<ref>[http://www.yamada-denki.jp/ir/pdf/report/yhyh/9831_04yhyh.pdf 平成15年度 有価証券報告書]</ref>や[[ヨドバシAkiba]](3万3000平方メートル)が参入してきた。[[Amazon]]が電気製品のネット通販に参入したのもこの頃であり、ネット上の競争も激化した<ref>[http://ascii.jp/elem/000/000/338/338655/ “Amazon.co.jp”、家電製品を扱う“エレクトロニクス”ストアをオープン]</ref><ref>[http://biz.bcnranking.jp/article/distribution/0412/041206_85295.html サイトビジネスを強化する販売店]</ref>。この波に乗りそこねたのはソーテックで、同社は1990年代末からのトラブルの後遺症のネガティブなイメージに悩まされていた。
 
[[MCJ]](マウスコンピューター)は2003年に家電量販店やパソコンショップチェーンなどへのOEM供給網のを本格的に開始すると一気に規模を拡大で急成長した[[MCJ]](マウスコンピューター)がさせ、2004年6月に株式[[は東証マザーズに上場]]を果たすと、同社は折からのマザーズ市場の勢いに乗って大量の資金調達に成功し、さらる規模拡大に向かう。この様な、マイクロソフト、インテル、その他パーツメーカーと上位パートナーシップを結びOEM版ソフトウェアや各種パーツを大幅格安価格で大量一括調達することが可能となるなど、[[規模の経済]]の効果をより大きく享受できる大規模な国内組立業者の出現は、ホワイトボックスパソコン市場においてさらなる価格破壊を引き起こす呼び水になった。これは中小零細企業や個人商店どころか、パソコンショップチェーンですら店舗単位でパーツを組み立てる規模の独自商品ではもはや価格面で太刀打ちできなくなり市場から駆逐される時代の到来を意味していた。また、ユーザーにとっても、相対的に自作パソコンはかえって割高に付く様になり、コスト面での実用性を失い、趣味ホビーの領域を出ないものになってゆく。
 
また、『[[ファイナルファンタジーXI]]』『[[大航海時代]]』『[[リネージュII]]』などといった本格的な[[3次元コンピュータグラフィックス|3D]][[オンラインゲーム]]が登場し、パソコンメーカー・パーツメーカー各社はオンラインゲームの運営会社と[[タイアップ]]して、安定動作と快適なゲームプレイを保証する「推奨パソコン」「推奨[[ビデオカード|グラフィックボード]]」の販売を始めた。元々、黎明期のオンラインゲームでは快適なプレイにはハイエンド構成のパソコンが必要で、その頃のプレイヤーには自作傾向が根強かったが<ref>[http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/0509/gyokai158.htm 大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」]</ref>、運営会社にとってはプレイヤー層拡大のためには自作パソコン以外でも対応するハイエンドPCを幅広く普及させる必要があったためである。この種のタイアップには数多くのメーカーやショップブランドが参画し、大手電機メーカーブランドのハイエンドモデルに対して、ホワイトボックスを扱う直販メーカーやショップブランド・パーツメーカーはBTOと低価格、最新パーツの即時投入などで対抗し、激しい販売競争を繰り広げた。
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2000年代半ばになると、自作パーツは複数のパーツ販社による類似スペック品が店頭に氾濫し差別化が難しく、粗利率も10%未満とその低収益体質が常態化していた<ref name="aopen1">[http://biz.bcnranking.jp/article/distribution/0507/050704_90254.html エーオープン パソコン完成品市場に参入 高付加価値製品で利益率アップへ]</ref>。これも一因となり低価格パソコン市場では自作向けパーツ単体と比べればトータルの販売単価が若干低くてもまだ利益率が高く、初心者・中級者相手にも売りやすい完成品ホワイトボックスの販売にシフトする傾向が色濃くなった。一方で台湾のパーツメーカーの多くも日本法人や国内の販売代理店を通じて本格的に完成品市場に参入を始め、そちらへの比重を高めていく<ref name="aopen1"/><ref>[http://biz.bcnranking.jp/article/distribution/ookawara/0802/080204_110783.html <大河原克行のニュースの原点>83.EeePCは低価格市場を掘り起こせるか]</ref>。同様にパソコン専門店も一般人・初心者に低価格の単体自作パーツを売るよりも、より販売単価が高いBTOへと舵を切った<ref>[http://biz.bcnranking.jp/article/distribution/akihabara/0601/060130_95046.html <秋葉原は今>10.メイン商材の選定を模索]</ref><ref>[http://biz.bcnranking.jp/article/distribution/akihabara/0604/060424_97102.html <秋葉原は今>22.パーツ販売店の品揃えが変化]</ref>。秋葉原は集客が増えたので自作パーツの販売量こそ増えたが、結局は単価が下落し価格競争に巻き込まれて<ref>[http://biz.bcnranking.jp/article/distribution/akihabara/0601/060116_94713.html <秋葉原は今>8.T・ZONE、BTOパソコンの販売へ]</ref>、新しいOSが出るなどの特殊な要因がない限り売上げの増加が期待できなくなっていた<ref>[http://biz.bcnranking.jp/article/distribution/0707/070702_106579.html パソコン店頭市場 前年比5%減で推移 秋以降は前年並みに回復か]</ref>。
 
この様な状況に対して、一部の小売店関係者からのパーツ・ホワイトボックス小売業界への不満が表面化した<ref name="usersside" />ことに見られる様に、業界黎明期から続く各社の価格競争路線や低粗利率が恒常化した業界体質は、ここに至り自作パソコン用パーツ小売・ホワイトボックスパソコンの両業界の数多くの企業の経営を深刻な苦境に追い込んだ。集客面では有利な環境にあったはずの電気街でさえ2007年1月の[[PCサクセス]]の倒産、同年9月の[[ラオックス|LAOX THE COMPUTER館]]の閉店など、多くのショップが姿を消してゆく。その中でも2008年1月、小型店ながら等身大の堅実経営をしている優良ショップというイメージを電気街で当時持たれていた高速電脳が経営破綻したことは、秋葉原界隈の同業者にとってもショッキングな出来事であったという<ref>[http://plusd.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0801/31/news100.html 業界の反応は……:「げ! マジで!?」――高速電脳の閉店に周辺ショップも絶句 - ITmedia +D PC USER]</ref>。また、株式上場と数多くの企業の[[M&A]]を経て業態を拡大し国産ホワイトボックスパソコンの最大手となったマウスコンピューターでさえ、この時期は価格競争の激化に苦しめられ、製造やアフターサポートの拠点を創業地であった埼玉県内から相対的に賃料や人件費が低い首都圏外へと地方の企業や事業所を買収し移転させるなど、利益率と収支の改善のためにさらなるコストダウンに追われることになった。当時はPC DEPOTなどのショップブランドへのOEM供給を続けていたソーテックも、企業再生グループなどの子会社を経て2007年に[[オンキヨー]]の傘下となり、翌2008年に同社に吸収合併された。
 
パソコン自体は生活や仕事の必需品となったものの、家電量販店にとっては低利益率や価格競争の激しさ、占有される売り場スペースが広いことなども含めて、うまみが小さい[[白物家電]]と同然の存在になっていく。とりわけ自作パソコン向けパーツは、商品のサイクルが非常に早い上に商品発注や説明顧客対応にもパソコンに対する相応の専門知識を持つスタッフの配置が必須となるなど、手に余るものであった。結、大手家電量販店では自作パーツコーナーの撤去が相次いだ<ref group="注釈">2000年代初頭の頃は自作パーツの取り扱いに積極的でほとんどの大型店舗で扱っていた[[ヤマダ電機]]や[[ケーズホールディングス|ケーズデンキ]]も、現在では共に一部の拠点級の[[フラグシップ|フラッグシップ店舗]]に限定した取り扱いとなっており、「地域最大級」を謳う大規模店舗であっても取り扱いが無いかあっても[[Dynamic Random Access Memory|メモリ]]や[[シリアルATA|SATA]]ケーブル、[[ネジ]]など一部パーツに限定された「自作パーツコーナー」というには程遠い内容になっている。</ref>。また、それらと並行して自作パーツを扱っていた独立経営の小規模パソコンショップもOA機器販売業に近い業態のものを別とすればほとんど姿を消し、地方の中核都市のみならず大都市圏の外郭部においても、地元から自作パーツ取扱店が悉く消え自作パーツの店頭購入が困難になる“空白地域”が拡大していった。地方都市への積極的な展開を続けてきたPC DEPOTやパソコン工房も通信販売や直販メーカーとの価格競争の激化に晒され新規出店ペースは鈍化傾向となる。PC DEPOTは既存店舗の[[スクラップアンドビルド]]による大型化に軸足を移し、パソコンと並行してデジタル[[情報機器]]化が進展している[[液晶テレビ]]や[[携帯電話]]の取り扱いを拡大し、やがてこれをパソコン関連商品と並ぶ販売の主軸に据える店舗を増やすなど、パソコン以外にも経営安定化の方策を求めていった。パソコン工房の運営会社アロシステム(現[[ユニットコム]])は2007年にMCJの傘下に入った。ドスパラは不採算店の整理を図りインターネット直販に注力してゆく
 
[[2008年]]、外神田のいわゆる「自作通り(パーツ通り)」からほど近い場所で[[秋葉原通り魔事件]]が発生。この惨事により秋葉原電気街の警備は大幅に強化されて物々しい雰囲気となり、週末の[[歩行者天国]]も長期にわたり中止され、秋葉原電気街は活気を失い、パソコンショップ各店舗の経営にもさらなる有形無形のダメージを与えることとなった。