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{{出典の明記|date=2009年10月}}
'''琉球神道'''(りゅうきゅうしんとう)は、[[琉球]](現在の[[沖縄県]])を中心に信仰されてきた琉球固有の宗教である。[[琉球王国]]時代には事実上の国教として[[祭政一致]]体制に編入され、現在も民間信仰として定着する、琉球固有の[[多神教]]宗教である。'''[[ニライカナイ]]信仰'''、'''[[御嶽 (沖縄)|御嶽]]信仰'''とも称される。
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'''琉球神道'''(りゅうきゅうしんとう)は、[[琉球]](現在の[[沖縄県]])を中心に信仰されてきた琉球固有の宗教である。[[琉球王国]]時代には事実上の国教として[[祭政一致]]体制に編入され、現在も民間信仰として定着する、琉球固有の[[多神教]]宗教である。'''[[ニライカナイ]]信仰'''、'''[[御嶽 (沖縄)|御嶽]]信仰'''とも称される。
 
== 解説 ==
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== 琉球における仏教 ==
[[ファイル:Ryukyu Butsudan.jpg|200px|right|thumb|沖縄の仏壇(ブチダン)]]
『[[琉球国由来記]]巻十』の「琉球国諸寺旧記序」によれば、[[咸淳|咸淳年間]]([[1265年]]~[[1274年]])に国籍不明の禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧であるとだけ言って詳しいことは分からなかったが、時の[[英祖 (琉球国王)|英祖王]]は禅鑑の徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立した。「琉球国諸寺旧記序」は、これが琉球における仏教のはじめとしている。禅鑑の国籍について鳥越憲三郎『琉球宗教史の研究』では『琉球国由来記』の記述に従い国籍不詳としており<ref name="shukyoushi5-1">『琉球宗教史の研究』1965年 「第5編 明治の宗教政策 第1章 古琉球の社寺概観」より。</ref>、また多田孝正は[[南宋]]の僧侶である禅鑑体淳に、琉球への仏教伝来を仮託した可能性を指摘している<ref>多田孝正「沖縄仏教の周辺」 「四、沖縄と禅鑑」より。多田孝正「沖縄仏教の周辺」は『沖縄の宗教と民俗 : 窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集』1988年に所収されている。</ref>。<ref group="注">多田孝正「沖縄仏教の周辺」 「一、『琉球国由来記』と『球陽』」では「補陀落僧と禅僧は全く異なった性格をもつ存在なのであって、両者を同一人と見ることは無理なことであろう。」と述べている。多田孝正「沖縄仏教の周辺」は『沖縄の宗教と民俗 : 窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集』1988年に所収されている。</ref>しかしながら、{{要出典範囲|date=2012年6月|補陀落信仰の捨身行である[[補陀落渡海]]の僧侶だったと考えている者もいる。}}
 
鳥越憲三郎『琉球宗教史の研究』によれば、日本本土と同様に、琉球においても仏教は国家安泰の保障、ないし実権者の実権擁護を願って入れられたものであったとしてる。しかし日本本土では時代の経過と文化の発展とによって政治的企図が破砕され、次第に本来の使命である民衆済度の信仰的なものへ還ったが、琉球では王国の崩壊まで社寺は国王およびその一族と共にあり、ついに民衆の信仰の対象となる時期を持たずして終わったと述べている<ref name="shukyoushi5-1" />。その一方で、御嶽に線香が供えられ香炉が設置されることが仏教の影響であることや<ref name="shukyoushi1-1-2">『琉球宗教史の研究』1965年 「第1編 神と村落 第1章 村落の成立 第2節 御嶽の構造」より。</ref>、仏教信者でも定まった寺院の檀徒でもないのに位牌を安置する仏壇を備えるのは、王族の私寺における貴族風に倣ったためであると指摘している<ref name="shukyoushi1-3-2">『琉球宗教史の研究』1965年 「第1編 神と村落 第3章 村落の構成 第2節 屋敷の構造」より。</ref>。
 
宮里朝光「琉球人の思想と宗教」によれば、琉球人は寛容で進取の気性に富んだので諸国と交易し、それらの国から多くの文化を取り入れたが、取り入れた外国文化は自国文化と融合させて独特の文化をつくったと述べ、仏教もその内容を琉球固有のものに変えたとしている。具体的には、琉球人は経文を知らず数珠も持たず、礼拝も祈る言葉も供物も琉球的で禅門で禁じた酒を供える。また、寺に祀る仏を神、寺を宮と言い、琉球の神と区別せず霊験あらたかな神として、御嶽を拝むのと差異なく拝むのだという。また、[[尚寧王]]の時代より[[中元節]]の行事に盆行事が加わり、[[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]後に盆祭が盛大におこなわれたことが[[冊封使]]の記録からわかり、起源は不明だが仏教の影響により盆行事がおこなわれるようになったと述べている<ref name="shisou4">宮里朝光「琉球人の思想と宗教」 「四、外来文化の受容と宗教」より。宮里朝光「琉球人の思想と宗教」は『沖縄の宗教と民俗 : 窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集』1988年に所収されている。</ref>。さらに宮里朝光は、琉球は人間平等で現世主義であったため、仏教をただ国家鎮護として受け入れ、一般民衆のものにならなかったのも当然のことであると述べている<ref name="shisou3" />。
 
一方で{{要出典範囲|date=2010年11月|ニライカナイ信仰に類似するものとして、日本本土の[[熊野]][[補陀洛山寺]]を中心とする[[補陀落]](ポータラカ)信仰をあげる者もいる。}}補陀落信仰は東方の海に観音菩薩の浄土があると考えるもので、インドの仏教伝来と共に渡ってきた概念である。インドにおいては観音浄土は南方の海にあると考えられ、ニライカナイとは方角が異なる。{{要出典範囲|date=2010年11月|ただし、『琉球国由来記』が琉球における仏教のはじめとした咸淳年間には、すでに琉球にニライカナイ信仰が存在したものと考えられている。}}
 
== 日本神道との類似性 ==
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遠藤庄治は、「琉球の宗教儀礼と日本神話」の中で[[宮古列島]]の[[来間島]]豊年祭の由来譚が日光感精による処女懐胎であることを説明し、『日本書紀』神代巻冒頭の天地が分かれる以前は鶏子のごとくであったとする条と[[アメノヒボコ#古事記|天日槍伝承]]に見られる卵生を思わせるモチーフが、来間島では豊年祭の由来として現在も語り継がれ、さらに祭りの催行も由来譚に登場する兄弟の家筋のものが司っていることを紹介して、沖縄においては記紀神話に語られる様々なことがらが現在も宗教儀礼の中で実修され、さらに宗教儀礼に関する神歌や口誦伝承もいまだに伝承されていると述べている<ref>遠藤庄治「琉球の宗教儀礼と日本神話」より。遠藤庄治「琉球の宗教儀礼と日本神話」は『日本神話と琉球』1977年に所収されている。</ref>。
 
== 音楽文化への影響 ==
琉球の祭祀でノロたちによって読み上げられる{{要出典範囲|date=2010年11月|ウムイ、クェーナ、ミセセル、ティルルといったいわゆる[[祝詞]]は、[[琉歌]]の原型と考えられている。}}琉歌の特徴である八・八・八・六(サンパチロク)の節が、これら祝詞の文節と共通するためである。{{要出典範囲|date=2010年11月|琉歌はその後、琉球民謡へと変化し、現在の沖縄音楽の基礎となっている。}}
 
== 脚注 ==
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*[[ノロ]]
*[[ユタ]]
*[[琉歌]]
*[[琉球王国]]
*[[琉球八社]]