「琉球神道」の版間の差分

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:前述のとおり、琉球には御嶽などにおいて部落や村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭をおこなう'''祝女(ノロ)'''と呼ばれる女神官が存在する。
:[[#御嶽|御嶽の節]]で述べたように、村落は守護神となる氏祖が祀られた御嶽を中心に形成されたが、その最も近き血縁者にして神の代弁者である家が根所(ニードゥクル)と呼ばれ、村を支配指導する実権を掌握した。根所は御嶽の神の代弁者として実権を代行する機関となったため、神託を受ける者と、その神託によって村を治める者が必要になった。この時、神託を受けたのは根所の女子から選ばれた根神(ニーガン)で、神託をもとに政治的実権を行使したのは根神の兄弟であり根所の戸主である根人(ニーチュ)であった。ここに妹(或は姉)の神託をもとに兄(或は弟)が治める政教二重主権が生まれた。この政教二重主権はヲナリ神信仰を基定として成立したと考えられる<ref name="shukyoushi1-2-2">『琉球宗教史の研究』1965年 「第1編 神と村落 第2章 村落の実権 第2節 根所の実権」より。</ref>。
:やがて村々を併合した按司と呼ばれる地方的実権者が現れるようになるが、按司もまた彼の姉妹から宗教的実権者たる巫女を選出した。これが祝女(ノロ)である。あるいは尊称を付してノロクモイと呼ばれた<ref name="shukyoushi1-4-2">『琉球宗教史の研究』1965年 「第1編 神と村落 第4章 城郭時代の御嶽 第2節 教権の更迭」より。</ref>。しかし、さらに時代が進むと地方実権者の1つである中山国により琉球統一がおこなわれ、その中央集権化政策によってノロは[[聞得大君]]を頂点とした官僚的神官組織に組み込まれることとなる<ref name="shukyoushi3-4-1">『琉球宗教史の研究』1965年 「第3編 巫女組織 第4章 国家時代の巫女組織 第1節 中央集権と宗教改革」より。</ref>。この聞得大君も王の姉妹から選ばれ、統一王においても兄妹による政教二重主権がおこなわれた<ref name="shukyoushi1-2-2" />。
:ノロや根神など神人は、神が降臨する聖地の御嶽で神懸りしながら神意を霊感し、それを地域社会の住民に伝達した<ref name="kenkyuge7-1-3">『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第7章 召名巫の生態と入巫‐沖縄のユタ‐ 第1節 沖縄のシャーマン‐ユタとユタマンチャー‐ 3 ユタの成立」より。</ref>。鳥越憲三郎は、琉球において巫女は神の顕現として、具象的な神の姿において民衆の前に現れ、しかもその時は自他ともに神そのものと認める存在として託宣を聞いたと述べている。すなわち神が憑依した者としての巫女に先行して、神そのものとしての巫女が存在しており、琉球の多くの文献に見られる神々の出現は、神そのものとしての巫女を指してるのだとしている<ref name="shukyoushi3-2-3">『琉球宗教史の研究』1965年 「第3編 巫女組織 第2章 巫女の本質 第3節 巫女の神性」より。</ref>。
 
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== 琉球における仏教 ==
[[ファイル:Ryukyu Butsudan.jpg|200px|right|thumb|沖縄の仏壇(ブチダン)]]
『[[琉球国由来記]]巻十』の「琉球国諸寺旧記序」によれば、[[咸淳|咸淳年間]]([[1265年]]~[[1274年]])に国籍不明の禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧であるとだけ言って詳しいことは分からなかったが、時の[[英祖 (琉球国王)|英祖王]]は禅鑑の徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立した。「琉球国諸寺旧記序」は、これが琉球における仏教のはじめとしている。禅鑑の国籍について鳥越憲三郎『琉球宗教史の研究』では『琉球国由来記』の記述に従い国籍不詳としており<ref name="shukyoushi5-1">『琉球宗教史の研究』1965年 「第5編 明治の宗教政策 第1章 古琉球の社寺概観」より。</ref>、また多田孝正は[[南宋]]の僧侶である禅鑑体淳に琉球への仏教伝来を仮託した可能性を指摘している<ref>多田孝正「沖縄仏教の周辺」 「四、沖縄と禅鑑」より。多田孝正「沖縄仏教の周辺」は『沖縄の宗教と民俗 : 窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集』1988年に所収されている。</ref>。<ref group="注">多田孝正「沖縄仏教の周辺」 「一、『琉球国由来記』と『球陽』」では「補陀落僧と禅僧は全く異なった性格をもつ存在なのであって、両者を同一人と見ることは無理なことであろう。」と述べている。多田孝正「沖縄仏教の周辺」は『沖縄の宗教と民俗 : 窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集』1988年に所収されている。</ref>
 
また鳥越憲三郎『琉球宗教史の研究』によれば、日本本土と同様に、琉球においても仏教は国家安泰の保障、ないし実権者の実権擁護を願って入れられたものであったとしてる。しかし日本本土では時代の経過と文化の発展とによって政治的企図が破砕され、次第に本来の使命である民衆済度の信仰的なものへ還ったが、琉球では王国の崩壊まで社寺は国王およびその一族と共にあり、ついに民衆の信仰の対象となる時期を持たずして終わったと述べている<ref name="shukyoushi5-1" />。その一方で、御嶽に線香が供えられ香炉が設置されることが仏教の影響であることや<ref name="shukyoushi1-1-2">『琉球宗教史の研究』1965年 「第1編 神と村落 第1章 村落の成立 第2節 御嶽の構造」より。</ref>、仏教信者でも定まった寺院の檀徒でもないのに位牌を安置する仏壇を備えるのは、王族の私寺における貴族風に倣ったためであると指摘している<ref name="shukyoushi1-3-2">『琉球宗教史の研究』1965年 「第1編 神と村落 第3章 村落の構成 第2節 屋敷の構造」より。</ref>。
 
宮里朝光「琉球人の思想と宗教」によれば、琉球人は寛容で進取の気性に富んだので諸国と交易し、それらの国から多くの文化を取り入れたが、取り入れた外国文化は自国文化と融合させて独特の文化をつくったと述べ、仏教もその内容を琉球固有のものに変えたとしている。具体的には、琉球人は経文を知らず数珠も持たず、礼拝も祈る言葉も供物も琉球的で禅門で禁じた酒を供える。また、寺に祀る仏を神、寺を宮と言い、琉球の神と区別せず霊験あらたかな神として、御嶽を拝むのと差異なく拝むのだという。また、[[尚寧王]]の時代より[[中元節]]の行事に盆行事が加わり、[[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]後に盆祭が盛大におこなわれたことが[[冊封使]]の記録からわかり、起源は不明だが仏教の影響により盆行事がおこなわれるようになったと述べている<ref name="shisou4">宮里朝光「琉球人の思想と宗教」 「四、外来文化の受容と宗教」より。宮里朝光「琉球人の思想と宗教」は『沖縄の宗教と民俗 : 窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集』1988年に所収されている。</ref>。さらに宮里朝光は、琉球は人間平等で現世主義であったため、仏教をただ国家鎮護として受け入れ、一般民衆のものにならなかったのも当然のことであると述べている<ref name="shisou3" />。