「東條英機の遺言」の版間の差分

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: 真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。}}
 
のちに東條についての著書を著した[[ロバート・ビュート]]は、東條を逮捕するために訪れたMP一行のひとり、ウィルパーズ中尉が東條自決直後に''東條の机にあった文書と前日の1945年9月10日付の「最後声明」''を押収したが、GHQによる英訳があるものの、日本語の現物は行方不明だとしている<ref name="Butow14">[[ロバート・J・ビュートー]]『東條英機(下)』第14章 名誉の失われし時(215-245頁)時事通信社 1961年</ref><!--p.223・236-->。
 
東京裁判で東條の弁護人を務めた[[清瀬一郎]]は、《英米諸国人ニ告グ》、《日本同胞国民諸君》、《日本青年諸君ニ告グ》がロバート・ビュートが言及した「最後の声明」に当たり、信用すべき人から、文意は東條のもの、文飾は「当時日本言論文筆および史学界の最長老某氏の添削を経たもの」との証言を得たとしている<ref>清瀬一郎『秘録 東京裁判』中公文庫 30ページ</ref>。
 
この遺書は昭和27年([[1952年]])の[[中央公論]]5月号に[[UPI|UP通信]]のE・ホーブライト記者<!-- http://opac.ndl.go.jp/ 雑誌記事検索で「~1969年」にチェックして、「東條英機の未発表遺書」「中央公論」「1952年5月」で検索-->が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されたものである。この遺書は、東京裁判で鈴木貞一の補佐弁護人を務めた[[戒能通孝]]から「東條的無責任論」として批判を受けた(戒能の評は同誌に遺書と同時に掲載された)。