「フリードリヒ・フォン・シラー」の版間の差分

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父は将校兼軍医のヨーハン・カスパール・シラー(Johann Caspar Schiller)、母はエリザーベト・ドローテーア・シラー(Elisabeth Dorothea Schiller)。
 
幼少より頭が良く、[[1767年]]には[[ルートヴィヒスブルク]]・[[ラテン語学校]]に入学。引き続き神学校への入学を目指すが、領主[[カール・オイゲン (ヴュルテンベルク公)|カール・オイゲン]]公にその才能を買われ、強制的に軍人養成学校・カール学院に入学させられる。そこでは法律を専攻する。[[1775年]]からは専門分野を医学に転向している。この頃、ロココ風の作品で知られる[[フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック|クロップシュトック]](''Friedrich Gottlieb Klopstock'' 1724-1803)の作品をよく読む。[[1776年]]、初の詩集『夜(Der Abend)』を出版する。心理学の例として学んだ[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『[[オセロ (シェイクスピア)|オセロ]]』や[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[若きウェルテルの悩み]]』、[[シュトゥルム・ウント・ドラング]](ドイツ疾風怒濤)時代の諸作品に触発され、処女作『[[群盗]](Die Räuber)』執筆を開始したのは[[1776年]]、シラー18歳のときであった。[[1779年]]、医学論文を提出するが、その内容に問題があるとされ、手直しを要求される。改訂版の論文が受理されたのは[[1780年]]になってからであった。
 
[[1781年]]、シラーは処女作『[[群盗]]』を匿名にて発表する。この作品は疾風怒濤時代の理想に燃える青年としてのシラーの、自由への願望と正義心の現れたものである。 権力に反抗する崇高な犯罪者を主人公としたこの作品の上演は観客に強烈な衝撃を与え、初演の[[マンハイム]]の舞台(1782年1月13日)ではとりわけ若者の観客たちによって熱烈に支持され、拍手喝采と歓声が鳴り止まなかった。また、大勢の観客が高揚のあまり失神したという。領地外に出ることをカール・オイゲン公に厳しく禁止されていたにもかかわらず、マンハイムの初演の舞台には作者シラー自身も秘密裏に赴いていた。しかし、この行動によってオイゲン公から目を付けられたシラーは、14日間の独房生活のあげく、以後は医学書以外の著作活動を一切禁じられ、半ば幽閉のような生活を強いられた。