「ヒエロニムス」の版間の差分

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ヒエロニムスは[[ダルマティア]]で生まれた。両親はキリスト教徒だったが、彼自身はキリスト教に興味がなく、[[ローマ帝国|ローマ]]に留学したのも[[修辞学]]と哲学の勉強のためであった。[[ギリシア語]]を習得し、[[ガリア]]や[[アナトリア半島]]をめぐって古典の研究に没頭したが、373年ごろ[[アンティオキア]]で重病にかかり、神学の研究に生涯をささげることを決意、[[歴史的シリア|シリア]]の砂漠で[[隠遁]]生活を送って[[ヘブライ語]]を学んだ。
 
378年に[[叙階]]されたあとは[[コンスタンティノポリス]]で[[ナジアンゾスのグレゴリオス]]と知り合い、さらに382年、ローマへ行って[[教皇|ローマ教皇]][[ダマスス1世 (ローマ教皇)|ダマスス1世]]に重用されるようになる。ローマ滞在中にラテン語訳聖書の決定版を生み出すべく、全聖書の翻訳事業にとりかかった。彼はギリシャ語新約聖書と[[七十人訳聖書]](セプトゥアギンタ)を底本とし、ヘブライ語聖書も参照していた。
 
384年にダマスス1世が世を去ると、庇護を失ったヒエロニムスはローマを去って聖地[[エルサレム]]へ向かった。[[ベツレヘム]]、エルサレムだけでなくエジプトへも赴いて、自らの神学研究の幅を広げた。ヒエロニムスはベツレヘムに落ち着くと、著述のかたわら聖書の翻訳を続け、405年ごろ完成させた。この聖書こそが中世から20世紀の[[第2バチカン公会議]]にいたるまでカトリックのスタンダードであり続けた「ウルガータ」訳聖書であった。ウルガータ(Vulgata)は[[ラテン語]]で「公布されたもの」という意味である。420年にベツレヘムで没するまでに、多くの神学的著作、書簡を残した。
 
ギリシア語、ヘブライ語をはじめ諸言語に通じ、豊かな古典知識を備えたヒエロニムスは、神学の水準向上と聖書研究の歴史に大きな足跡をしるしている。
 
[[ゴート族]]の侵入によってローマが占領される同時期の人物でもあり、このことについて嘆く手紙を残している。
 
 
 
== 出典・参考文献 ==