「田川亮三」の版間の差分

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==年譜==
* 農林省(現:[[農林水産省]])から三重県秘書課長、企業庁長、三重県副知事を歴任する。[[民社党]]公認で[[三重県第1区 (中選挙区)|三重1区]]から衆議院議員選挙に出馬する予定であった。しかし、[[田中覚]]三重県知事が任期途中で三重県知事を辞職して、[[自由民主党]]公認で衆議院議員に転身するために[[三重県第1区 (中選挙区)|三重1区]]から出馬した。後継の[[三重県知事]]選挙には、自由民主党の公認候補となった[[九鬼喜久男]]四日市市長の対抗馬として、[[野党]]候補の出馬宣言が遅れる形となったが、田川が[[無所属]]候補として三重県知事選挙で[[民社党]]・[[日本社会党]]の支援を受けた。四日市公害問題([[四日市ぜんそく]])が争点となり、[[1972年]](昭和47年)12月の三重県知事選挙で初当選。この間に、民社党・日本社会党以外の[[自由民主党]]から支援を受けるようになり、オール与党の三重県知事として、
#四日市公害(四日市ぜんそくによる健康被害と四日市周辺の環境対策
#全国最初の[[リゾート法]]の適用地に指定されるように尽力
#[[愛知県]]と[[三重県]]との間で紛争となっていた[[木曽岬干拓地]]問題の決着
#[[世界祝祭博覧会]]の開催など三重県に数々の足跡を残した。
 
* 三重県知事6期目の途中だったが、[[1995年]](平成7年)4月に健康上の理由により辞職した。同年[[9月18日]]に急性呼吸不全のため死去。享年76。