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'''二上 達也'''(ふたかみ たつや、[[1932年]][[1月2日]] - )は、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]。1990年、引退[[渡辺東一]]名誉九段門下で[[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]は57。タイトル獲得通算5期、1990年に引退した<ref name="nenkan2008">{{Cite book|和書|editor=[[青野照市]]編|year=2008|title=将棋年鑑 平成21年版|publisher=[[日本将棋連盟]]|page=521|id=ISBN 978-4-8399-3261-9}}</ref>
 
[[1989年]]から[[2002年]]にかけて[[日本将棋連盟]]会長を勤めた<ref name="shogi_or_history">{{cite web|url=http://www.shogi.or.jp/aboutus/history.html|title=組織概要[創立・沿革]:日本将棋連盟|accessdate=2012年8月14日|author=公益社団法人 日本将棋連盟}}</ref>。
[[渡辺東一]]名誉九段門下。[[棋士 (将棋)#棋士番号|棋士番号]]は57。
 
== 経歴 ==
[[日本将棋連盟]]会長([[1989年]] - [[2002年]])。
=== 生い立ち ===
[[1932年]]、[[北海道]][[函館市]]の網元の家で8人兄弟の末子として生まれた<ref>二上(2004) 15頁</ref>。1939年に母が亡くなり、京都帝大を卒業した兄は[[太平洋戦争]]で北千島に出征した後に[[シベリア抑留]]を受けた<ref>二上(2004) 22頁、二上(2008) 40、45-48頁</ref>。比較的裕福な家庭だったが、[[戦後]]の農地改革で土地を失い、インフレにより貯蓄の価値が失われ、父は1946年に病気で亡くなった<ref>二上(2008) 47-48頁</ref>。その頃に函館中学(後の[[北海道函館中部高等学校]])へ通っていた二上は友人との将棋に時間を費やすようになり、やがてアマチュア六段の白土誠太郎<ref group="注釈">1960年に七段。{{cite web|url=http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/shirato_sei.htm|title=はこだて人物誌 白土誠太郎|accessdate=2012年8月14日|date=2008年3月31日|author=函館市中央図書館}} </ref>の将棋会所で指導を受けるようになった<ref>二上(2004) 40頁、50-53頁</ref>。
 
1949年、17歳のときにアマ名人戦北海道大会で準優勝し、優勝した島田永信と共に北海道代表として東京で開かれたアマ名人戦に参加して二上は2回戦敗退、島田は優勝した<ref>二上(2004) 34-35頁</ref>。中央棋界との交流がある白土は日本将棋連盟会長を勤めていた[[渡辺東一]]に二上を弟子とすることを提案した<ref group="注釈">二上より年下で同じ函館出身の[[北村昌男]]は既に白土の紹介で渡辺の弟子となっていた。 二上(2004) 34-35頁</ref>。シベリアから復員して函館中学の英語教師をしていた親代わりの兄は反対したが、軍で兄と面識のあった島田の説得もあり1950年に渡辺の内弟子となり上京した<ref>二上(2008) 62-64頁</ref>。
[[北海道]][[函館市]]出身。北海道立函館高校(現[[北海道函館中部高等学校]])卒業。
 
=== 棋歴プロ入り ===
1950年4月、[[新進棋士奨励会|奨励会]]に二段で入会<ref>二上(2004) 43頁</ref>同年、11月に18歳で四段昇段(プロ入り)<ref>二上(2004) 50頁</ref>1951年の[[順位戦]]で初参加から3年連続昇級して、一気にB級1組に上がる。さらに1年の間を置いて1956年にA級八段となる。'''入門から八段まで6年間'''という最短記録は、その後も破られていない<ref>二上(2004) 71頁</ref>(奨励会入会から四段昇段まで68ヶ月も最短記録)。
全盛期の[[大山康晴]]に対して孤軍奮闘した棋士である。大山との対戦成績は45勝116敗で大きく負け越しているが、大山の五冠独占を二度も崩している。特に、'''1959年度から1966年度までの8年間にタイトルを獲得した棋士は、大山と二上の2名だけ'''である(''[[大山康晴の戦績]]'' および''[[将棋のタイトル在位者一覧 (1)]]'' を参照)。
 
その後は23期連続でA級に留まり<ref group="注釈" name="juni_hosei" /><ref name="nenkan2008" />、3度名人への挑戦者となった。1958年には準タイトル扱いの王座戦の決勝に進んだが、[[塚田正夫]]に敗れた<ref>二上(2004) 95頁</ref>。
1949年、17歳のときにアマ名人戦北海道代表。
 
=== 大山とのタイトル争い ===
1950年、[[新進棋士奨励会|奨励会]]に二段で入会。同年、18歳で四段昇段(プロ入り)。[[順位戦]]で初参加から3年連続昇級して、一気にB級1組に上がる。さらに1年の間を置いて1956年にA級八段となる。'''入門から八段まで6年間'''という最短記録は、その後も破られていない(奨励会入会から四段昇段まで6ヶ月も最短記録)。
初のタイトル挑戦は第10期(1959年度)[[十段戦 (将棋)|九段戦]]であり、[[大山康晴]]三冠王([[名人戦 (将棋)|名人]]、九段、[[王将戦|王将]]を独占)と戦ったが3勝4敗で敗れた<ref name="kudan_index">{{cite web|url=http://www.shogi.or.jp/kisen/shoumetsu/10-9.html|title=十段戦・九段戦|accessdate=2012年8月14日|author=公益社団法人 日本将棋連盟}}</ref>。その直後の第9期[[王将戦]]でも大山に挑戦したが、2勝4敗で敗退した<ref name="oushou_index">{{cite web|url=http://www.shogi.or.jp/kisen/oushou/index.html|title=王将戦:日本将棋連盟|accessdate=2012年8月14日|author=公益社団法人 日本将棋連盟}}</ref>。第10期(1960年度)王将戦、第12期(1961年度)九段戦、第21期(1962年)[[名人戦 (将棋)|名人戦]]では、四冠王の大山(新設の[[王位戦|王位]]も含めて独占)と対決するが、いずれも敗退<ref name="oushou_index" /><ref name="kudan_index" /><ref name="meijin_index">{{cite web|url=http://www.shogi.or.jp/kisen/kisei/archive.html|title=名人戦・順位戦:日本将棋連盟|accessdate=2012年8月14日|author=公益社団法人 日本将棋連盟}}</ref>。
 
そして、第12期(1962年度)王将戦では、今度は五冠王となっていた大山(新設の[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]も含めて独占)を4勝2敗で破り、ついに、初のタイトルとなる王将を獲得<ref name="oushou_index" /><ref>二上(2004)112-113頁</ref>。タイトル戦の数が3つの時代の1959年から5つの時代を通じ続いいた大山の全冠独占を初めて崩した棋士となる
初のタイトル挑戦は第10期(1959年度)[[十段戦 (将棋)|九段戦]]であり、[[大山康晴]]三冠王([[名人戦 (将棋)|名人]]、九段、[[王将戦|王将]]を独占)と戦ったが3勝4敗で敗れる。その直後の第9期[[王将戦]]でも挑戦。大山との十四番勝負のようになった。しかし、こちらも2勝4敗で敗退。
 
翌年度、王将を大山に奪還されて五冠復帰を許した。大山は1963年から1966年の間にタイトル19連続獲得を達成して五冠王を維持しその間に二上はタイトル戦で大山に6回挑戦したがいずれも敗れた。第8期(1966年度前期)[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]で大山を3勝1敗で破り、再び大山のタイトル独占を崩す。しかし、半年後に大山に棋聖位を奪還され、再び大山が五冠独占を許してまう
第10期(1960年度)王将戦、第12期(1961年度)九段戦、第21期(1962年)[[名人戦 (将棋)|名人戦]]では、四冠王の大山(新設の[[王位戦|王位]]も含めて独占)と対決するが、いずれも敗退。
 
大山との対戦成績は45勝116敗で大きく負け越しており、タイトル戦では20戦2勝<ref>二上(2004) 116頁</ref>であるが大山の五冠独占を2度崩した。
そして、第12期(1962年度)王将戦では、今度は五冠王となっていた大山(新設の[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]も含めて独占)を4勝2敗で破り、ついに、初のタイトルとなる王将を獲得。タイトル戦の数が3つの時代から5つの時代を通じて、大山の全冠独占を初めて崩した棋士となる。
 
=== 2度目の棋聖獲得 ===
翌年度、王将を大山に奪還され、五冠復帰を許してしまう。大山は、タイトル19連続獲得で他の誰にもタイトルを渡さぬ驚異的な勢いで五冠王を維持していたが、二上はタイトル戦で大山に挑み続けた。
1958年にA級入りした[[加藤一二三]]をはじめ、[[芹澤博文]]、[[山田道美]]、[[内藤國雄]]など年下の棋士が徐々に台頭した。1967年には山田が棋聖を獲得し<ref name="kisei_index">{{cite web|url=http://www.shogi.or.jp/kisen/junni/index.html|title=棋聖戦:日本将棋連盟|accessdate=2012年8月14日|author=公益社団法人 日本将棋連盟}}</ref>、1968年には20才の[[中原誠]]が当時の最年少記録で棋聖を獲得した<ref>二上(2004) 152頁</ref>。二上は1970年代に棋聖戦で4回<ref name="kisei_index" />、王座戦で1回<ref name="ouza_index">{{cite web|url=http://www.shogi.or.jp/kisen/ouza/index.html|title=王座戦:日本将棋連盟|accessdate=2012年8月14日|author=公益社団法人 日本将棋連盟}}</ref>、王将戦で1回<ref name="oushou_index" />タイトルに挑戦したが、いずれも敗れた。
 
1980年度後期の第37期棋聖戦で[[米長邦雄]]を破り、14年半ぶりにタイトル獲得。その後も1981年度の前期、後期で棋聖位を防衛し3連覇。もう1期で永世棋聖(通算5期)となるところであったが、1982年前期に[[森けい二|森雞二]]によって奪われ、チャンスを逸し通算5期が条件である永世棋聖にはなれなかっ<ref name="kisei_index" />
そして、第8期(1966年度前期)[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]で大山を3勝1敗で破り、再び大山のタイトル独占を崩す。しかし、半年後に大山に棋聖位を奪還され、再び五冠独占を許してしまう。
 
順位戦では1978年に6勝4敗で4名が並び、名人挑戦者を決めるプレーオフに出場し、二上は米長に敗れた。1979年には3勝6敗でB級1組へ降級したが1980年にはA級へ復帰した。1982年の2度目の降級後も2期後にA級へ復帰した。1986年に3度目に降級した後の1988年頃から引退を考え始めた<ref name="kishi_174">二上(2004) 174-178頁</ref>。公式戦である、1989年の[[オールスター勝ち抜き戦|勝ち抜き戦]]で弟子の[[羽生善治]]と対局して負けた際に最終的に引退を決意したと語っている<ref name="kishi_174" />。
以上、1969年度までの18回のタイトル戦登場は、いずれも大山が相手であり、そのうち、二上の獲得は2回であった。
 
=== 将棋連盟の役職 ===
1980年度後期の第37期棋聖戦で[[米長邦雄]]を破り、14年半ぶりにタイトル獲得。その後も1981年度の前期、後期で棋聖位を防衛し3連覇。もう1期で永世棋聖(通算5期)となるところであったが、1982年前期に[[森けい二|森雞二]]によって奪われ、チャンスを逸した。
1967年から1973年の間、連盟の理事の一人となって出版などを担当した。勝負に集中するため1973年に辞任したが、将棋会館の建設問題が発生した<ref>二上(2004) 145-149頁</ref>。理事会が不透明な形で計画を進めたことに対して多数の棋士が反発し、二上は若手の代表として意見をまとめた。結果として1974年に当時の理事会が全て辞職し、塚田が会長、副会長に大山と中原、二上が専務理事となった。大山が建設担当となり東西に新しい将棋会館が建設された<ref>二上(2004) 150-154頁</ref>。
 
二上は理事として渉外を担当していたが、朝日新聞と契約していた名人戦の1976年度の交渉が難航し、合意に至らず順位戦・名人戦は中止された。代わりに名人戦の設立時にスポンサーだった毎日新聞が契約候補となり、棋士総会で毎日との契約が決定した。契約問題の責任をとって塚田理事会は総辞職し、新たに大山が会長に就任する際に二上は慰留を受けたが断って辞職した<ref>二上(2004) 155-160頁</ref>。
公式戦で弟子の[[羽生善治]]と対局して負けたのが現役引退を決意した理由のひとつだと語っている(1989年3月10日第11回[[オールスター勝ち抜き戦|勝ち抜き戦]])。その1年後、[[順位戦]]B級1組在籍中の鮮やかな退き際は話題を呼んだ。
 
1989年、12年続いた大山会長に対する不満が若手・中堅の棋士の間で高まり、中原からの要請を受けて大山が最高顧問、二上が[[日本将棋連盟]]会長となった<ref name="kishi_174" />。[[2002年]]まで14年間(歴代最長)に渡って会長を勤めた<ref name="shogi_or_history" />。その間に[[女流王位戦]]、[[大山名人杯倉敷藤花戦|倉敷藤花]]の創設や[[竜王戦]]などのタイトル戦における女流枠の設定による女流棋士戦の活性化と、国際将棋フォーラムの開催による日本以外の国への普及活動を行った<ref>二上(2004) 189-193頁</ref>。
 
== 棋風 ==
[[棋風]]は[[居飛車]]の攻め将棋。[[相掛かり]][[ガッチャン銀]]戦法は二上定跡として有名である<ref>「将棋の公式」[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]著より</ref>。守りが薄い状態で攻め込むため、展開の早い勝負になりやすく、終盤の力で勝負した<ref name="kishi_71">二上(2004) 71-76頁</ref>。木村14世名人は二上のスピードの早い将棋を評価した<ref name="kishi_71" />。塚田は、自身の師匠である[[花田長太郎]]と塚田を足して2で割った棋風と語った<ref >二上(2004) 94-96頁</ref>。大山によれば振り飛車を嫌っていたとされる<ref>{{Cite book|和書|author=大山康晴|year=1988|title=昭和将棋史|publisher=[[岩波書店]]|id=ISBN 4-00-430007-X}} 177-178頁</ref>が、自身では対大山で経験を積んだため振り飛車の相手が苦にならなくなったという<ref >二上(2004) 166-167頁</ref>。
 
上の世代の棋士は対局中につぶやいたり、歌を歌う等、相手を惑わせることを日常的に行ったが、二上は盤上での勝負にこだわり[[盤外戦]]を行わなかった<ref name="kishi_127">二上(2004) 85-86頁、127-135頁</ref>。二上だけでなく戦後の棋士達はそうした行為をしない傾向があった<ref name="kishi_127" />。
 
== 人物 ==
二上は詰将棋作家でもあり、処女作品集「将棋魔法陣」等を出版している<ref name="sekai2000">「[[将棋世界]]」2000年1月号付録</ref><ref group="注釈">「将棋魔法陣」は1953年に約200部を発行した。 </ref>。アマチュア時代の1948年に[[将棋世界]]に掲載されたことを初めとして<ref>二上(2004) 182-183頁</ref>、50年以上の間に約1万題を作成した<ref>二上(2008) 218-220頁</ref>。スポーツ新聞では15年以上の間、定期的に出題を行った<ref>{{Cite book|和書|author=二上達也|year=1994|title=詰め物そぞろある記|publisher=[[マイナビ (企業)|毎日コミュニケーションズ]]|id=ISBN 4-89563-602-X|page=7}}</ref>。[[将棋ペンクラブ]]名誉会長<ref name="nenkan2008" />。
*[[棋風]]は[[居飛車]]の攻め将棋。[[相掛かり]][[ガッチャン銀]]戦法は二上定跡として有名である。(「将棋の公式」[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]著より)
 
*[[詰将棋]]作家としても知られており、代表的な作品集に「将棋魔法陣」がある<ref name="sekai2000">「[[将棋世界]]」2000年1月号付録</ref>。また、新聞などでも定期的に出題を行っている。
若い頃はスピード昇級したため上の世代との対決が多かったが、2年年上の[[熊谷達人]]は順位戦で競い、気が合った<ref>二上(2004) 68-69頁</ref>。同じ時期に奨励会を過ごした[[山田道美]]もA級まで昇ったが、1970年に病死した<ref>二上(2004) 141-142頁</ref>。後輩の[[北村昌男]]、[[芹澤博文]]は一緒に酒を飲む<ref >二上(2004) 102-103頁</ref>詰将棋作家同士の縁から、[[内藤國雄]]とも親しくなった<ref>二上(2004) 185-187頁</ref>。
*大山康晴会長退任の後を受け、[[2002年]]まで14年間(歴代最長)に渡って[[日本将棋連盟]]会長を務めた。
 
*約10人の弟子をとり、その中から棋士となった弟子には、[[瀬戸博晴]]と[[羽生善治]]がいる<ref>二上(2004) 169-173頁</ref>
*[[将棋ペンクラブ]]名誉会長。
*[[カラオケ]]好きの縁から、[[内藤國雄]]とは気心の知れた仲である。
 
;=== ニックネーム ===
*若いときには「函館の天才」と呼ばれた<ref name="sekai2000"/>。また、その容姿から、「北海の美剣士」とも呼ばれた。「ガミさん」というニックネームで親しま呼ば<ref name="sekai2000"/><ref>二上(2004) 151頁</ref>。
[[カラオケ]]が好きなことから、芹澤に「マイク二上」という呼び名をつけられたこともある<ref>{{Cite book|和書|author=二上達也|year=1994|title=詰め物そぞろある記|publisher=[[マイナビ (企業)|毎日コミュニケーションズ]]|id=ISBN 4-89563-602-X|page=41}}</ref>。
*若いときには「函館の天才」と呼ばれた<ref name="sekai2000"/>。また、その容姿から、「北海の美剣士」とも呼ばれた。
*[[カラオケ]]が大好きなことから、「マイク二上」と呼ばれることもある。
 
== 昇段履歴 ==
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== 主な成績 ==
 
;=== 通算成績 ===
:856勝 752敗
 
{| class="wikitable" style="float:right" border="1"
|- align="center"
130 ⟶ 144行目:
|1982||棋聖・前||●●●||[[森けい二|森&#38622;二]]||防衛失敗(永世棋聖獲得を逸する)
|}
;通算成績
:856勝 752敗
 
=== タイトル ===
タイトル戦登場回数26、獲得合計5(詳細は[[#タイトル戦全成績|末尾の表]]を参照)
 
*[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]] 4期(1966年度前期=第8期、1980年度後期=第37期 - 1981年度後期=39期)
*[[王将戦|王将]] 1期(1962年度=第12期)
:タイトル戦登場回数26、獲得合計5
 
=== 一般棋戦優勝 ===
:優勝合計5回
*[[最強者決定戦]] 1回(1961年度 = 第1回)
*[[東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦|高松宮賞争奪選手権戦]] 1回(1962年度 = 第7回)
*[[日本将棋連盟杯争奪戦]] 1回(1976年度 = 第9回)
*ほか2回
:優勝合計5回
 
=== 在籍クラス ===
* [[順位戦]]A級 '''通算27期'''、連続23期(第11期=1956年度 - 第38期<ref group="注釈" name="juni_hosei">第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあり、第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。このため、第31から35期の順位戦は存在しない。つまり、第11期から第38期までは連続23期のA級在籍である。</ref>, 第40-41期, 第44-45期)
* [[竜王戦]]1組 通算3期(第1期=1988年 - 第3期)
 
161 ⟶ 173行目:
*1992年4月29日 [[紫綬褒章]]
*2001年 函館市栄誉賞
*2002年 [[勲等|勲四等]][[旭日章#等級|旭日小綬章]]
 
== 主な著書 ==
* {{Cite book|和書|author=二上達也|year=2002|title=二上詰将棋選集(2002年8月、|publisher=[[日本将棋連盟]]|id=ISBN 4-8197-0257-2)2}}
* {{Cite book|和書|author=二上達也|year=2004|title=棋士(2004年5月、|publisher=[[晶文社]]|id=ISBN 4-7949-6619-9)9}}
* {{Cite book|和書|author=二上達也|year=2006|title=棋を楽しみて老いるを知らず(2006年6月、|publisher=[[東京新聞出版局]]|id=ISBN 4-8083-0851-7)7}}
 
== 脚注 ==
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=二上達也|year=2004|title=棋士|publisher=[[晶文社]]|id=ISBN 4-7949-6619-9}}
* {{Cite book|和書|author=二上達也|year=2006|title=棋を楽しみて老いるを知らず|publisher=[[東京新聞出版局]]|id=ISBN 4-8083-0851-7}}
 
== 関連項目 ==
*[[将棋棋士一覧]]
*[[棋戦 (将棋)]]
*[[将棋のタイトル在位者一覧 (1)]]
*[[大山康晴の戦績]]
 
== 外部リンク ==