「ナバス・デ・トロサの戦い」の版間の差分
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|conflict=[[レコンキスタ]]
|date=[[1212年]][[7月16日]]
|place=[[スペイン]]、[[アンダルシア州]][[ラ・カロ
|result=カトリック連合軍の圧勝
|combatant1=[[カスティーリャ王国]]<br/>[[アラゴン王国]]<br/>[[ナバーラ王国]]<br/>[[ポルトガル王国]]<br/>[[テンプル騎士団]]<br/>[[サンティアゴ騎士団|サンチャゴ騎士団]]<br/>[[カラトラバ騎士団]]<br/>[[聖ヨハネ騎士団|オスピタル騎士団]]など
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|casualties2=90,000~100,000
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'''ナバス・デ・トロサの戦い'''([[スペイン語]]:{{lang|es| Batalla de Las Navas de Tolosa }}、[[アラビア語]]:{{lang|ar| معركة العقاب }})は、[[1212年]]7月16日に[[イベリア半島]]、現[[アンダルシア州]][[ラ・カロ
== 戦前のイベリア半島情勢 ==
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== カトリック連合軍の集結と脱落者の続出 ==
[[1199年]]にヤアクーブ・マンスールを継いだ[[ムハンマド・ナースィル]]は1211年、10万を越える大軍を率いて[[ジブラルタル海峡]]を渡り、[[カラトラバ騎士団]]の守る[[サルバティエーラ]]の要塞を占領して、カトリック諸国の心胆寒からしめた。ムワッヒド朝が新たに攻撃の準備をしていることを知ると、[[教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]と[[トレド]]の[[大司教]]は、カトリック諸国間で争うのをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争を戦うように命じた。教皇の仲裁の下で、カスティーリャ王アルフォンソ8世、[[ナバラ王国|ナバーラ王]][[サンチョ7世 (ナバラ王)|サンチョ7世]]、[[アラゴン王国|アラゴン王]][[ペドロ2世 (アラゴン王)|ペドロ2世]]は同盟を確約した。
カトリック連合軍の構成は次のようであった。アルフォンソ8世の指揮する軍勢はカスティーリャの20の町の軍団の連合であった。[[メディーナ・デル・カンポ]]、[[マドリード]]、[[ソリア]]、[[アルマサン]]、[[メディナセリ]]と[[サン・エステバン・デ・ゴルメス]]などの町が含まれていた。[[ビスカヤ県|ビスカヤ]](Vizcaya)の領主ディエゴ・ロペス2世デ・アロ(Diego López II de Haro)が旗の持ち手になった。そしてナバーラ王サンチョ7世、アラゴン王ペドロ2世、[[ポルトガル王国|ポルトガル王]][[アフォンソ2世 (ポルトガル王)|アフォンソ2世]]の軍である。ポルトガル軍はこの戦いには参戦したものの、王自身は参戦しなかった。それから[[テンプル騎士団]]、[[サンティアゴ騎士団|サンチャゴ騎士団]]、カラトラバ騎士団、[[聖ヨハネ騎士団|オスピタル騎士団]]などの[[騎士修道会]]や、フランスの司教に率いられた騎士らが加わった。レオン王アルフォンソ9世はアルフォンソ8世と敵対していたために来なかったが、レオン王国の騎士たちは王の名代としてはせ参じた。1212年の夏にこうしてカトリック連合軍はトレドに集結した。そしてムハンマド・ナースィル率いる親征軍と歴史的な決戦をすべく南方へ向かって進軍した。
アルフォンソ8世にとってはアラ
== ナバス・デ・トロサの戦闘経過 ==
[[アンダルシア州|アンダルシア地方]]のハエンの住民の間の小競り合いに半ば介入する形で、1212年7月16日にハエン近郊のナバス・デ・トロサで両軍は戦闘を開始した。カトリック連合軍の配置は、カスティーリャ王と騎士修道会の軍勢が中央に陣取り、ナバーラ王、[[アビラ]]
[[ファイル:SanchosoloWK.jpg|frame|left|ナバーラ王サンチョ7世「剛勇王」の雄姿。スペイン北部ロンセスバーリェスの会堂のステンドグラスの画像より。]]
ムワッヒド軍は正面からの衝突をなるべく避けて、カトリック連合軍が疲れてくるのを待つ戦術をとった。イスラム軍はカトリック軍の2倍をはるかに凌駕する兵力であり、後退するように見せかけて、主力の厚みを生かして一気に反攻するつもりであった。つまり、カトリック連合軍を挑発しておいて混乱しているところを、[[アンダルス]]と本国の[[ベルベル人]]で構成された圧倒的な戦力をもって[[イベリア半島]]から一気に叩き出すつもりであった。
イスラム教徒軍が後退を始めた時、それを見ていたカトリック連合軍の陣中では、アルフォンソ8世が臣下である騎士たちや王子の正面にいた。アルフォンソ8世はカトリック王たち共通の、そして自分自身に課せられた使命を果たすチャンスと見てとった。アルフォンソ8世は、ムハンマド・ナースィルの本陣の反対側の脇腹に突撃をかけた<ref>脇腹へ抜ける山の間道(Despeñaperros Pass;直訳はDespeña-「絶壁から突き落とす」+-perros「犬たちorひどい、劣悪な」→「絶壁にある犬走り、間道」又は「絶壁にある劣悪な間道」か?)をこっそり使って奇襲をかけた、あるいはアンダルシア地方の「王の橋」を通ってシ
この時、伝説のように語られるナバーラ王サンチョ7世の突撃が行なわれた。ナバーラ王は揮下の精鋭を率いてムハンマド・ナースィルの本陣めがけて突攻し、本陣のテントを鎖のように守る屈強な奴隷による親衛隊を打ち破って、テントまで斬り込んだ。ムハンマド・ナースィルとその軍勢は慌てふためいて、9万とも10万ともいえる犠牲者を出して敗走した。一方、カトリック連合軍の戦死者は2000人ほどであった。主な犠牲者は騎士修道会に集中していた。カラトラ
[[ファイル:Blason Royaume Navarre.svg|thumb|100px|right|戦後のナバーラ王国の新たな盾形紋章]]
ナバーラ王国の盾形紋章はこの戦いを契機に、赤地に金の鎖が描かれて中央にエメラルドが配される図柄となった。この紋章は今も[[スペイン|スペイン王国]]の紋章の右下部分に見ることができる。
== ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響 ==
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