「シロバナムシヨケギク」の版間の差分

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== 日本への来歴 ==
日本への渡来は[[1886年]](明治19年)であり、はじめは、田中芳男送付の種子を東京衛生試験所薬草園で栽培採種し、これを播種し、[[1888年]]5(明治21年)5月に初めて製粉、効果をハエやノミに試み、良結果を得た。よって同一種子を農商課植物園で試作し、一部を[[和歌山県]]内の集産場で栽培した。
 
農務局のものは[[熊本県]]にも送付され、特に和歌山県で営利的成功をおさめた。一方、同じく[[1888年]]に大阪の[[清水多三郎]]が除虫菊粉の取引をしていた関係上、神戸のモルフ商会から種子を取り寄せ、播種したが、わずかに観賞用にとどまった。また一方、除虫菊界の恩人とされる当時和歌山県でみかん農園を運営していた[[上山英一郎]]種子交換によりアメリカから得た種子を明治19年播種、最初は観賞用として栽培していたが、後にこの菊に殺虫成分が含まれるのを知り、殺虫剤として接種・栽培に取り組み、他県にも種子を分けて製粉を試みると共に、上山が製造し蚊取り線香が大いに売れたことで、後に[[大日本除虫菊|金鳥]]を設立することとなると共に、除虫菊界の恩人とも呼ばれることになる。日本で栽培された当時は、輸入品に圧倒されていたが、国内での栽培量も安定し[[1898年]](明治31年)には対米輸出を開始、[[第一次世界大戦]]以降には、除虫菊の世界的な生産地となった。
 
== 往年の製法 ==