「溝口秀勝」の版間の差分
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== 生涯 ==
[[溝口勝政]]の長男として天文17年
幼少時より[[丹羽長秀]]に仕えたが、[[天正]]9年([[1581年]])に[[織田信長]]からその才能を見出され、直臣として[[若狭国]][[大飯郡]][[高浜城]](現[[福井県]][[大飯郡]][[高浜町]])5000石を与えられ
天正10年([[1582年]])、[[本能寺の変]]で信長が横死した後は、羽柴秀吉([[豊臣秀吉]])に属
天正11年([[1583年]])、[[賤ヶ岳の戦い]]後、[[越前国]][[福井城|北ノ庄城]]に入封した丹羽長秀の与力として、[[加賀国]][[江沼郡]][[大聖寺城]](現[[石川県]][[加賀市]][[大聖寺町]])4万4000石を与えられた。
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== 家族 ==
[[長井源七郎]]の娘を妻に迎え、その間に2男5女を
なお、[[赤穂浪士]]の[[堀部武庸]]を秀勝の曾孫とする説があるが、血縁関係はない<ref>[http://www.geocities.jp/dougakudou/page025.html 溝口秀勝の子女]</ref>。また、[[信濃国]][[小笠原氏]]家臣に一字違いの[[溝口長勝]]という人物がいるが、秀勝とは関係はない。
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