「北村小松」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tribot (会話 | 投稿記録)
加筆
1行目:
'''北村 小松'''(きたむら こまつ、[[1901年]](明治34年)[[1月4日]] - [[1964年]](昭和39年)[[4月27日]])は、日本の劇作家、小説家、脚本家。
 
[[青森県]][[三戸郡]][[八戸町]](現・[[八戸市]])生まれ。[[慶應義塾大学]]英文科卒。在学中から[[小山内薫]]に師事して劇作を学び、卒業後に[[松竹]]キネマ蒲田研究所に入社。松竹の『[[マダムと女房]]』(1931)など多くの映画シナリオを書く。戦後はユーモア小説作家に転じた。「人物のゐる街の風景」(1926)が初期代表作で、初期は左翼文学にも手を染めたが、戦時下は戦争協力小説を多く書き、スパイものを編纂した。ほか翻訳がある。終戦後の[[1946年]]に[[公職追放]]を受けて活動停止追放処分となる([[1950年]]に解除)。1964年、心臓病のため死去。
 
[[小松左京]]が、[[SF作家]]を志すきっかけになった小説家でもある。1941年に北村が著したSF小説『火』を読んで、北村がこの著書で述べている[[原子爆弾]]について、刊行から僅か[[広島市への原子爆弾投下|4年]][[長崎市への原子爆弾投下|後に]]に実際に使用された事に衝撃を受け、「SFとは遠い未来の出来事ではなく、人類の近未来を著わす重要な役割を果たしている」と認識しSF作家を目指したと[[日本放送協会|NHK]]のインタビューに答えている。([[あの人に会いたい]]#290、[[2011年]][[10月29日]]放送)
 
== 人物 ==
空飛ぶ円盤研究会などで北村と親交があった[[三島由紀夫]]は、「氏の内の決して朽ちない少年のこころ、あらゆる新奇なもの神秘なもの宇宙的なものへの関心は、そのナイーヴな、けがれのない熱情は、世俗にまみれた私の心を洗つた。氏は謙虚なやさしい人柄で、トゲトゲした一般小説家の生活感情なんぞ超越してゐた」<ref name="mishima">[[三島由紀夫]]『空飛ぶ円盤と人間通―北村小松氏追悼』([[朝日新聞]]夕刊 1964年4月30日に掲載)。『決定版 三島由紀夫全集第33巻・評論8』(新潮社、2003年)に収む。</ref>と述べている。また、北村が妻について書いた文章「わが契約結婚の妻」に触れ、「私はこれこそ真の人間通の文章だと感嘆し、早速その旨を氏へ書き送つたが、今にしてみると、それは氏のやさしい遺書のやうな一文であつた。それは逆説的な表現で、奥さんへの愛情と奥さんの温かい人柄を語つた文章であるが、人間が自分で自分をかうだと規定したり、世間のレッテルで人を判断したり、自意識に苦しめられたり、……さういふ愚かな営みを全部見透かして、直に人間の純粋な心情をつかみとるまれな能力を、氏が持つてゐることを物語つてゐた」<ref name="mishima"/>と追悼している。
 
== 著書 ==
115 ⟶ 118行目:
*1938年 姿なき侵入者 松竹大船
*1940年 海軍爆撃隊 東宝映画東京
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
 
== 外部リンク ==