「大塩平八郎の乱」の版間の差分

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[[天満橋]](現[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]])の大塩邸を発った大塩一党は、[[難波橋]]を渡り、[[北船場]]で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となった。彼らは「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなるばかりで、奉行所の兵に半日で鎮圧されてしまった。
 
大塩は養子・格之助と共におよそ40日余り、大坂近郊各所に潜伏した。せめて先に江戸に送った告発文建議書が幕府に届くことを期待したのである。だが告発文建議書江戸に届いたものの大坂町奉行所が発した差し戻し命令のために発送先に届けられず、大坂へと差し戻しの途中、[[箱根関|箱根の関]]で発見され、押収されてしまう。
 
失意のまま大坂に舞い戻った大塩は、美吉屋五郎兵衛の店(現[[西区 (大阪市)|西区]]靱油掛町付近)に匿われたが、出入りする奉公人によって[[大坂城代]][[土井利位]]([[古河藩]]主)に通報され、土井とその家老[[鷹見泉石]]らの率いる探索方に包囲された末、火薬を使って自決した。遺体は顔の判別も不可能な状態であったと伝わる。
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== 備考 ==
*大塩が幕閣に送りつけた告発状建議書の中には、文政12年([[1829年]])から翌年にかけて行われていた、与力弓削新左衛門らを仲介者とした武家無尽に関する告発が書かれていた。武家及びその家臣が[[無尽]]に関与することは禁じられていた(『[[御仕置例類集]]』第一輯)が、財政難で苦しむ諸藩は自領内や大都市で無尽を行って莫大な利益を得ていた。大塩は大坂で行われていた不法無尽を捜査した際にこの事実を告発したが、無尽を行っていた大名たちの中には幕閣の要人も多くおり、彼らはその証拠を隠蔽して捜査を中断させてしまった。大塩はその隠蔽の事実を追及したのである。大塩が告発した中には、水野忠邦や[[大久保忠真]]ら、事件当時の現職老中4名も含まれていた<ref>藤田覚「一九世紀前半の日本 -国民国家形成の前提-」(初出:『岩波講座日本通史 15』(岩波書店、1995年) ISBN 978-4-00-010565-1/改題「近世後期政治史と朝幕関係」所収:藤田『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年) ISBN 978-4-642-03353-4 序章</ref>。
 
*告発状建議書が箱根で押収されたことには、皮肉にも当時の社会の汚職が[[飛脚]]にまで及んでいたことが背景にあった。大塩の告発状が入った書簡を江戸に運んでいた飛脚は、その中に金品が入っていると思って箱根の山中にて書簡を開封し、金品がないと知るや書簡ごと道中に放り捨ててしまっていた。それを拾った者によって、書簡が[[韮山代官]][[江川英龍]]の元に届けられ、内容の重大性に気付いた江川が箱根関に通報した、というのが顛末であった。更に3月、今度は幕府から朝廷に対して大塩追跡の状況を知らせた文書が、同じ箱根山中で同様の被害に遭い、事情を知った[[関白]][[鷹司政通]]が[[武家伝奏]][[徳大寺実堅]]を通じて[[京都所司代]]に対して抗議したことが、同じ武家伝奏の[[日野資愛]]の日記に記されている(ただし、資愛自身は事件当時は江戸滞在中で、帰京後に聞いた話を記したものである)<ref>藤田覚「大塩事件と朝廷・幕府」(初出:『大塩研究』28号(大塩事件研究会、1990年)/所収:藤田『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年) ISBN 978-4-642-03353-4 第七章</ref>。
 
== 脚注 ==