「ブランデンブルク協奏曲」の版間の差分

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[[ブランデンブルク=シュヴェート]][[辺境伯]][[クリスティアン・ルートヴィヒ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート|クリスティアン・ルートヴィヒ]]に献呈された6曲の協奏曲集は、現在[[ドイツ図書館|ベルリンの国立図書館]]にバッハの自筆譜が残されている。「ブランデンブルク協奏曲」(''Brandenburgische Konzerte'')という名称は、『バッハ伝』を著した[[フィリップ・シュピッタ|シュピッタ]](Philipp Spitta)の命名によるもので、自筆譜には[[フランス語]]で「いくつもの楽器による協奏曲集」(''Concerts avec plusieurs instruments'')と記されているだけである。この自筆譜には、代筆されたと推定されるフランス語の献辞が添えられており、2年前に伯の御前演奏をした際に賜った下命に応じて作品を献呈する旨が記されている。しかし、いつどのようにして御前演奏する機会を得たのかは、献辞に記された日付から[[1719年]]のことと推測されるものの、はっきりとは分かっていない。
 
献辞に示された動機を否定するものではないが、本作品が成立した本当の理由は就職活動だったのだろうと考えられている。当時バッハが仕えていた[[レーオポルト (アンハルト=ケーテン侯)|アンハルト=ケーテン侯レオポルト]]は自ら演奏もこなす大変な音楽愛好家で、一諸侯には珍しい立派な宮廷楽団をかかえ、楽団は多くの名手をそろえていた。バッハは[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ#生涯|ケーテンの宮廷楽長]]として一生を終えるつもりだったが、ケーテン侯の妃となった女性が音楽嫌いであったためにレオポルト侯の音楽熱は冷め、楽団も縮小される事態に至ったという<ref>しかし、レオポルト侯はバッハがライプツィヒへ去った後も互いに手紙で連絡を取り合っていたことから、レオポルト侯の音楽熱が冷めてバッハがケーテンに居づらくなったとする言い伝えを疑問視する意見もある。ただし、この時期にレオポルト侯が財政難から楽団を縮小せざるを得ない状況にあり、それがバッハをケーテンから去らせる一因になったことは確かであると考えられる。</ref>。この状況で、バッハは新天地を求めざるを得ないと判断したのだろう。本作品が献呈されたのと同じ頃に就職活動をしていたことが知られており、[[1723年]]には[[ライプツィヒ]]の[[トーマスカントル]]に転出している。辺境伯に作品を献呈することで、就職を有利にしようとしたことは十分に考えられるのである。
 
一方で、その作曲過程も明らかではない。ただ、各曲の楽器編成や様式などから判断して、かなり長い期間にわたってつくられた協奏曲のなかから6曲を選び、編成の大きなものから順に並べたものであると考えられている。作曲された順番は、第6番→第3番→第1番→第2番→第4番→第5番であり、第3番と第6番は[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ#生涯|ヴァイマル時代]]にさかのぼると推測される。第1番以降については、それぞれに見られる楽器編成や、高い演奏技術が求められることなどから、ケーテンの[[宮廷楽長]]に就任してからの創作と思われる。楽器編成はケーテンの楽団員構成によって、作品内容も楽団員の技巧水準を考えれば説明できるからである。しかも、シュヴェート辺境伯の宮廷楽団は少人数であった([[1734年]]には6人だったことが知られている)から、演奏はほとんど不可能だった。いずれにせよ、別の目的でつくられた作品から転用されたことは間違いない。
 
唯一、最後に作曲されたと見られる第5番については、作曲の時期と動機をうかがわせる、かなり有力な状況証拠が残っている。[[1719年]]、宮廷からバッハに大金が支払われた記録があり、その明細によると、バッハが[[ベルリン]]まで[[チェンバロ]]を受け取りに行ったらしい。購入されたチェンバロが高価であることから、バッハがそれ以前に一度ベルリンに赴いて、オーダーメードでチェンバロを作らせたのではないかと考えられている。新しいチェンバロを前にして、バッハが作曲の腕をふるっただろうことは想像に難くない。すでに完成していたと見られる初稿BWV1050aと献呈稿を比べると、有名な第1楽章のチェンバロ独奏部は献呈稿において初稿の約3倍の長さ(19[[小節]]→65小節)になっており、チェンバロのお披露目を意図した改変であることが想像される。通常は[[通奏低音]]楽器のチェンバロを[[独奏楽器群]]に加えること自体が独創的であるが、第5番はチェンバロの活躍が著しく、実質的に音楽史上初の[[チェンバロ協奏曲]]として、後代の[[ピアノ協奏曲]]の出現を準備する画期的な作品となった。ちなみに、この2回のベルリン行きの際に辺境伯に会う機会があったのではないか、という説も有力である。
 
== 脚注 ==
<references />
 
==参考文献==