「篠塚和典」の版間の差分

{{by|1982年}}、[[中日ドラゴンズ]]との首位攻防戦で無死一・二塁の場面で送りバントをした際、相手投手の[[郭源治]]が三塁へ悪送球し、外野へ転がったがそのボールを[[左翼手]]の[[大島康徳]]がトンネルし、さらに大島が追いかけて捕ったボールが[[三塁手]]に中継され本塁へ投げたが、[[捕手]]の[[中尾孝義]]が取り損ない、その間に打者走者の篠塚もホームインした(記録上は失策だがランニング・ホームランのような出来事だった)。
 
{{by|1987年}}10月18日の[[吉村禎章]]の30号が「2ストライク4ボールからのホームラン」だったが、[[中畑清]]の談話によると、[[1987年の日本シリーズ|日本シリーズ]]を前にした消化試合で吉村の打席には誰も興味が無く、ベンチで異変に気づいた選手は篠塚ひとりだったとのこと。その日本シリーズでは最後の打者となったが、この年を最後に[[後楽園球場]]での試合開催が終了した為、後楽園球場にとっても最後の打者となった。
 
線審を廃し審判6人制から4人制になった{{by|1990年}}の開幕戦、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]に1対3と負けていた8回裏、好投を続けていた[[内藤尚行]]からライトポール際へのフライを放ち、一塁審判の[[大里晴信]]が本塁打と判定した。その年のバラエティ番組で上記の疑惑の本塁打についてコメントを求められ「あれはファウルでしたね」と発言している。原因はポールがボールと類似色の白い塗料で塗られていたため判定が非常にわかりづらかったことであり、この件の後に東京ドームのポールは白→黄→オレンジに塗り替えられた。
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