「柴田勲」の版間の差分

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2000本安打を達成した1980年限りでの引退を決意していたが、シーズン終了後に長嶋茂雄が監督を辞任して、新監督に就任した[[藤田元司]]から慰留され、翌1981年も現役続行する。巨人はその年リーグ優勝、そして日本一を達成している。柴田は日本シリーズの第6戦に5番左翼手で先発出場している。日本シリーズは10打数4安打を記録、これを花道として現役引退。
 
NPBにおけるスイッチヒッターの草分け的存在であると言える。日本プロ野球での通算2000安打達成者の中では現在に至るまで唯一人のスイッチヒッターである。(日米通算では{{by|2009年}}に[[松井稼頭央]]も達成している)。その一方、194本塁打を記録しているものの、左打席での長打力の弱さは度々指摘されており(打席数は左の方が多いにもかかわらず通算の本塁打数は左右で大差がなかった)、[[左右打席本塁打]]は1度も記録できなかった<ref>NPBでは1975年5月17日に[[リッチー・シェーン]](広島)が初めて記録。日本人選手では柴田の現役引退後の1982年5月15日に[[松永浩美]](阪急)が初めて記録した。</ref>。
 
引退後は{{by|1982年}}から{{by|1985年}}まで巨人守備走塁コーチ。三塁[[野球場#ネクスト・バッタースボックス、コーチスボックス|コーチスボックス]]に立つが、王貞治監督時の1984年~1985年はマスコミから「'''壊れた信号機'''」と酷評されることが多かった。巨人は1984年、1985年と連続で優勝を逃し、その責任を取る形で柴田は投手コーチの[[堀内恒夫]]ともに退団した。