「御親兵」の版間の差分

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長州藩は最後まで御親兵へ献兵を出し渋り、最後に招集に応じた。御親兵は名目上は[[兵部卿]][[有栖川宮熾仁親王]]を長とし、公称は1万人であったが、実質は8,000人もしくはそれ以下であったと言われている。
 
だが、皮肉にも御親兵を維持するための財政的余裕が無く、早くも3月には[[宮内省]]の予算から10万両が維持費の名目で[[兵部省]]に移されている。それが、木戸・大隈の主張する地方行政組織と税制の改革着手の主張を後押しした。また、大久保・西郷の主張する維新功労者の登用の先駆けとして明治3年の[[大蔵省]]・[[民部省]]分離の際に、木戸・大隈派に楔をうつために大久保の推挙によって[[日田県|日田県知事]]から[[民部[[大丞]]に起用された[[松方正義]]からも財政問題の打開には最終的には地方行政組織と税制の改革しかないとする意見が寄せられると、大久保・西郷側も次第に木戸・大隈側に歩み寄りを見せた。7月14日の廃藩置県の断行には御親兵そのものの威力もさることながら、その整備を巡る諸問題の浮上があったのである。
 
御親兵は廃藩置県とともに名実ともに近代日本最初の[[国軍]]として機能することになった。その後、[[徴兵令]]の施行とともにその役目を新軍隊に譲って本来の業務である皇居警護に専念することになり、明治5年([[1872年]])には[[近衛 (日本軍)|近衛]](このえ)と改称され、明治24年([[1891年]])には[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の[[近衛師団]]となった。