「オスカー・シュトラウス」の版間の差分

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'''オスカー・シュトラウス'''(またはオスカル・シュトラウス)('''Oscar Straus''', [[1870年]][[3月6日]] - [[1954年]][[1月11日]])は[[オペレッタ]]の[[作曲家]]。
 
さる[[逸話|アネクドート]]によると、本来の姓はもともと“Strauss”と綴ったが、著名な[[シュトラウス|シュトラウス(Strauß)一家]]との混同を避けるために、語末のsを一つ省いたといわれる。しかしながら[[ワルツ]]の作曲という将来性のある誘惑をしりぞけ、劇場音楽の作曲という、より効率のよい仕事に切り替えるように助言したのは、[[ヨハン・シュトラウス2世]]その人であった。
 
[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]に楽才を祝福されてウィーン音楽院に学んだ後、[[ベルリン]]で[[マックス・ブルッフ]]に師事し、ユーバーブレットル・カバレット(文芸酒場)で楽団[[指揮者]]を勤める(この時期、楽団の編曲家として[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]を雇う)。その後[[ウィーン]]に戻りオペレッタの作曲に専念し、[[フランツ・レハール]]のライバルとして名を揚げる。[[1905年]]にレハールの《[[メリー・ウィドウ]]》が初演された際、「あれぐらい俺にもできるぞ( "Das kann ich auch!" )」と言い放ったと伝えられる。