「イデル=ウラル国」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Sonchou (会話 | 投稿記録)
画像の無いファイルへのリンクを除去。
編集の要約なし
66行目:
}}</ref>。イデル=ウラルは1918年4月に[[赤軍]]に敗北したが、この地域は同年7月に[[チェコ軍団]]によって回復された。しかし、最終的に[[ボルシェビキ]]が勝利し、この国は1918年末までに消滅させられた。これは[[1919年]]から[[1920年]]の散開的な反乱を引き起こしたが、[[1921年]]にはボルシェビキによって粉砕された。イデル=ウラル国の構想は1929年までひそかに存在を続けたが、この年、[[チェーカー]]はついにイデル=ウラル運動への潜入を成し遂げ、指導部を壊滅させた。[[ヴォルガ]]とウラルの少数民族の地域の全域で数千のイデル=ウラル運動の支援者が処刑された。
 
[[ファイル:Sadri Maksudi Arsal.jpg|250px|サムネイル|サドゥリ・マクスディ・アルサール]]
イデルウラル大統領であった[[サドゥリ・マクスディ・アルサール]](Sadri Maksudi Arsal)は1918年[[フィンランド]]に亡命した。彼はロシア・[[ドゥーマ]]でのフィンランドの憲法上の権利と彼の国の自決権の英雄的な防衛をよく知っているフィンランドの外務大臣に快く引き受けられた。亡命した大統領は[[エストニア]]の役人に会い、1919年以降は[[スウェーデン]]、[[ドイツ]]、[[フランス]]と続けて[[西欧]]の支援を求めた。これらの努力から、イデル=ウラル国は冷戦時代のアメリカ公法で"自由を奪われた国"に連ねられている<ref>Campbell, John Coert (1965), [http://books.google.com/books?id=T44nUbmBAD8C&pg=RA1-PA116&dq=%E2%80%9CCaptive+Nations%E2%80%9D&ei=M0RXS_eKJ4LmzAS7ns3dAw&cd=7#v=onepage&q=%E2%80%9CCaptive%20Nations%E2%80%9D&f=false American Policy Toward Communist Eastern Europe: the Choices Ahead], p. 116. [[University of Minnesota Press]], ISBN 0816603456</ref> 。