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==青海という地域的枠組みの成立==
 チベット高原の中央部には、七十九族と総称されるチベット系・モンゴル系の遊牧民集団が居住していた。 この集団は、1732年、[[タンラ山脈]]を境界として南北に分割されることとなり、北方の「四十族」は[[西寧]]の、南方の「[[三十九族]]」は[[西藏]]に所属することとなった<ref>佐藤長,1986</ref>。 
「西藏」と「青海」の境界は1732年に決定され、 ここに、グシ・ハン一族が領有する青海草原と、その南に隣接して「四十族」が居住・分布する[[カム]]地方北部チベット系遊牧民の領主[[ナンチェン王]](ནང་ཆེན་རྒྱལ་པོ།)<ref>清朝が与えた[[土司]]としての称号は「[[嚢謙千戸]]」(のうけん-せんこ)</ref>の所領をまとめて「[[青海]]」という地域的枠組みが設定することとなった。
 清朝時代の'''青海'''地方は、[[藩部]]と位置づけられ、[[甘粛]]の[[西寧]]に駐箚する[[西寧弁事大臣]]を通じ、[[理藩院]]の管轄を受けた。
 
== 年表 ==