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アブディ・アシルタ(Abdi-Aširta,Abdi-Ashirta,Abdi-Aschirta ないし Abdi-Ašratu)は、
'''アブディ・アシルタ'''(Abdi-Aširta,Abdi-Ashirta,Abdi-Aschirta ないし Abdi-Ašratu)は、南[[シリア]]のアムル王国(→[[アムル人]])の君主。
治世は前1414世紀(1380年前後?)。とりわけ、このエジプト管理自治州アムルの首邑スムル(シミュラとも)の責任を担った。
 
当時[[エジプト新王国]]/[[エジプト第18王朝]]時代。シリア地方には無数の小王国が分立していた。ハラブ([[アレッポ]])、[[ウガリト]]、[[アララハ]]、[[エブラ]]、[[カトナ]]、[[カデシュ]]、グブラ([[ビブロス]])、[[ダマスカス]]、ウルサリム([[エルサレム]])そして、[[アムル]]などである
ハラブ([[アレッポ]])、[[ウガリト]]、[[アララハ]]、[[エブラ]]、[[カトナ]]、[[カデシュ]]、
グブラ([[ビブロス]])、[[ダマスカス]]、ウルサリム([[エルサレム]])そして、[[アムル]]などである。
 
[[アマルナ文書]]には、「エジプトの臣下」と称しながらヒッタイト王[[シュッピルリウマ1世]]と結ぶアブディ・アシルタを警戒するようにと[[アメンホテプ三世]]や[[アメンホテプ四世]](エクナトン)宛てにしたためた、ビブロス王リブ・アッダ(アディとも。治世前約1375年から1355年頃)の書簡が見られる。
警戒するようにと[[アメンホテプ三世]]や[[アメンホテプ四世]](エクナトン)宛てにしたためた、
ビブロス王リブ・アッダ(アディとも。治世前約1375年から1355年頃)の書簡が見られる。
 
なお、アブディ・アシルタの死についても、アマルナ文書中のエクナトン宛てリブ・アッダ書簡 EA 101に言及あり。アブディ・アシルタの後継者はその子ら、プバフラ、ニクメパ、アズィルである
アブディ・アシルタの後継者はその子ら、プバフラ、ニクメパ、アズィルである。
 
[[de:Abdi-Aširta]]