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'''大喪儀'''(たうそうぎ)は、[[天皇]]・[[皇后]]・[[太皇太后]]・[[皇太后]]等の[[皇室]]の[[葬儀]]のこと。
 
現在の[[日本国憲法]]下では、現[[皇室典範]]の規定により[[天皇]]の時は、国の儀式として「[[大喪の礼]]」が行われる。
 
== 構成 ==
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*[[斂葬の儀]]
 
== 概要変遷 ==
元々江戸時代までの皇室の[[葬儀]]は仏式で寺院において行われていたが、[[明治時代]]以降神式が行われるようになった。
[[古代]]においては、[[殯宮]]を設置して1年間遺体を安置する慣わしであったが、[[持統天皇]]の時に[[火葬]]が導入されて以後は簡略化されて30日間が通例とされた。[[聖武天皇]]の時に[[仏教]]に則った方式に変更された。[[村上天皇]]までは天皇の葬儀が国家的行事として行われてきたが、次の在位中の崩御となった[[後一条天皇]]の葬儀以後、崩御の事実を隠して譲位の儀式を行った後に天皇家の私的行事である[[太上天皇]]の葬儀の形式で内々に行われるようになり、[[穢]]との関連から外戚や近臣などの例外を除いては公卿が参列することもなくなった<ref name=hisamizu>久水俊和「天皇家の葬送儀礼と室町殿」(初出:『國學院大學大学院紀要(文学研究科)』34号(2002年)/改題所収:「天皇家の葬送儀礼からみる室町殿」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2)</ref>。平安時代以後は、生前に造営した寺院などで行う事になったが、[[北朝 (日本)|北朝]]の[[後光厳天皇]]以後は[[京都]][[泉涌寺]]で開催されることとなった。前述の事情により、天皇の葬儀に関する作業の多くはほとんど僧侶の手で行われる一種の秘儀となったが、戦乱による泉涌寺の荒廃によって僧侶が揃えられなかった[[後土御門天皇]]の大葬を実際に手伝った公卿の[[東坊城和長]]は『明応記』と称される詳細な葬儀記録(凶事記)を残して、後世に天皇の大葬の様子を伝えている。なお、同天皇の葬儀は[[応仁の乱]]後の財政難から作業の中断を余儀なくされ、実際の葬儀が開かれたのは崩御から43日後で後世に「玉体腐損、而蟲湧出」(『[[続本朝通鑑]]』)と伝えられた(ただし、真相は不明である)<ref>久水俊和「東坊城和長の『明徳凶事記』」(初出:『文化継承学論集』5号(2009年)/改題所収:「〈凶事記〉の作成とその意義」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2)</ref>。[[江戸時代]]に入ると、江戸幕府の影響の下で再び国家的行事の性格を有するようになり、現職の摂関以外のほとんどの公卿が参列するものとなった<ref name=hisamizu/>。また、[[後光明天皇]]以後は様式は火葬のまま、実際には[[土葬]]の制が復活し、[[孝明天皇]]の時に様式も土葬のそれとなった。なお、この時までは仏教による葬儀であったが、[[明治維新]]と[[東京奠都]]の影響により、その3年祭は[[東京]]に移された宮中で[[神道]]に則って開催された。以後、[[英照皇太后]]と[[明治天皇]]の神式の例を踏まえて、[[1909年]]に[[皇室服喪令]]、続いて[[1924年]]に[[皇室喪儀令]]が制定され、天皇及び三后の逝去を「'''[[崩御]]'''」・葬儀を「'''大喪'''」と呼称する事が定められた。[[戦後]]の[[皇室典範]]改正により、皇室服喪令・皇室喪儀令は廃されたものの、慣例としてこれに準じた儀礼が採用された。[[1989年]]の[[昭和天皇]]の場合には、[[日本国憲法]]の[[政教分離原則]]に反しない形で国家儀式の[[大喪の礼]]と皇室儀式の[[葬場殿の儀]]・[[斂葬の儀]]が分離されたものの、実際には連続して開催されている。
 
[[飛鳥時代]]までは、[[殯宮]]を設置して1年間遺体を安置する慣わしであったが、[[持統天皇]]の時に[[火葬]]が導入されて以後は簡略化されて30日間が通例とされた。
== 脚注 ==
<references/>
 
[[奈良時代]]に、[[聖武天皇]]の時に[[仏教]]に則った方式に変更され、以後[[村上天皇]]までは天皇の葬儀が国家的行事として行われてきたが、次の在位中の崩御となった[[後一条天皇]]の葬儀以後、崩御の事実を隠して譲位の儀式を行った後に天皇家の私的行事である[[太上天皇]]の葬儀の形式で内々に行われるようになり、[[穢]]との関連から外戚や近臣などの例外を除いては公卿が参列することもなくなった<ref name=hisamizu>久水俊和「天皇家の葬送儀礼と室町殿」(初出:『國學院大學大学院紀要(文学研究科)』34号(2002年)/改題所収:「天皇家の葬送儀礼からみる室町殿」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2)</ref>。
 
[[平安時代]]以後も、[[鎌倉時代]]・[[室町時代]]・[[安土桃山時代]]に至るまで、[[仏教]]に則った方式が行われ、生前に造営した寺院などで行う事になり、[[北朝 (日本)|北朝]]の[[後光厳天皇]]以後は[[京都]][[泉涌寺]]で開催されることとなった。前述の事情により、天皇の葬儀に関する作業の多くはほとんど僧侶の手で行われる一種の秘儀となったが、戦乱による泉涌寺の荒廃によって僧侶が揃えられなかった[[後土御門天皇]]の時は、実際に手伝った公卿の[[東坊城和長]]は『明応記』と称される詳細な葬儀記録(凶事記)を残して、後世に天皇の葬儀の様子を伝えている。なお、同天皇の葬儀は[[応仁の乱]]後の財政難から作業の中断を余儀なくされ、実際の葬儀が開かれたのは崩御から43日後で後世に「玉体腐損、而蟲湧出」(『続本朝通鑑』)と伝えられた(ただし、真相は不明である)<ref>久水俊和「東坊城和長の『明徳凶事記』」(初出:『文化継承学論集』5号(2009年)/改題所収:「〈凶事記〉の作成とその意義」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2)</ref>。
== 変遷 ==
元々江戸時代までの皇室の[[葬儀]]は仏式で寺院において行われていたが、[[明治時代]]以降神式が行われるようになった。
 
[[江戸時代]]に入ると、[[江戸幕府]]の影響の下で再び国家的行事の性格を有するようになり、現職の摂関以外のほとんどの公卿が参列するものとなった<ref name=hisamizu/>。また、[[後光明天皇]]以後は様式は[[火葬]]のまま、実際には[[土葬]]の制が復活した。
[[1924年]](大正15年)に[[大正天皇]][[崩御]]の際に制定された「[[皇室喪儀令]]」において規定され、旧憲法下では「国」の儀式として行われた。
 
[[江戸時代]]末期から[[明治時代]]になり、[[孝明天皇]]の時に神道に則った形式へ変更され、[[明治維新]]と[[東京奠都]]の影響により、その三年祭は[[東京]]に移された宮中で[[神道]]に則って開催された。以後、[[英照皇太后]]と[[明治天皇]]と神式の形式が取られていった。
その後[[日本国憲法]]制定に伴い[[政教分離]]が明記されたため、[[昭和天皇]][[崩御]]の時は国の儀式として「[[大喪の礼]]」が行われ、皇室の儀式として「大喪儀」が行われた。
 
[[大正時代]]には、[[1909年]]に[[皇室服喪令]]、続いて[[1924年]]に[[皇室喪儀令]]が制定され、天皇及び三后の逝去を「'''[[崩御]]'''」・葬儀を「'''大喪'''」と呼称する事が定められた。[[戦後]]の[[皇室典範]]改正により、皇室服喪令・皇室喪儀令は廃されたものの、慣例としてこれに準じた儀礼が採用された。
== 参考 ==
 
戦後、[[日本国憲法]]施行後は、[[1989年]]の[[昭和天皇]]の場合には、[[政教分離原則]]に反しない形で国家の儀式として「[[大喪の礼]]」、皇室の儀式として「大喪儀」と、名目上は分離され開催されており、「大喪儀」は神道に則った形式で執り行われた。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 関連項目 ==