「英露協商」の版間の差分

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'''英露協商'''(えいろきょうしょう、英 {{en|Anglo-Russian Entente}})とは、[[1907年]]に[[イギリス]]と[[ロシア帝国|ロシア]]が結んだ協約。[[イラン]]、[[アフガニスタン]]、[[チベット]]における両国の勢力範囲を決定した。これによりイギリスとロシアは[[グレート・ゲーム|対立関係]]が解消し、両国は[[ドイツ]]の[[3B政策]]や[[汎ゲルマン主義]]に対抗することとなった。これにより[[露仏同盟]]、[[英仏協商]]と合わせて[[三国協商|英仏露協商]]が成立する。
 
== 背景 ==
[[南下政策]]を推進していた当時のロシアにとって、その対象となる地域は大きく三つあった。ただし極東からの南下に関しては、[[1905年]]の[[日露戦争]]敗北によって頓挫しているため、残された二つの選択肢は[[ペルシア]](イラン)・[[アフガニスタン]]からの南下か、バルカン・小アジアからの南下であった。当時の外務大臣であった[[アレクサンドル・イズヴォリスキー]]は、このうち海路(ボスフォラス・ダーダネルス両海峡)からの南下を戦略的に重視する立場をとっていた。
 
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イギリスがこの協約を成立させたことは、暗にロシアのバルカン半島への南下を、自国の国益に反しない範囲で容認するものであり、いわゆる「[[3B政策]]」を推進する[[ドイツ]]を牽制する狙いもあったとされる。
 
== 内容 ==
;ペルシア(イラン)に関する協定
:北部をロシア、南部をイギリスの勢力範囲として、両国の勢力下におかれない中立地帯も設定した。[[ガージャール朝|カージャール朝]]の独立を尊重することと、この地域における機会均等も確認された。