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[[江戸時代]]になると、富士山の登拜が[[庶民]]の間でも広く行なわれるようになった。これは[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から江戸時代初期([[16世紀]]後半から[[17世紀]]前半)に[[富士山麓]]の人穴で修行した[[角行藤仏]]([[天文 (日本)|天文]]10年([[1541年]]) - [[正保]]3年([[1646年]])が行なった[[富士信仰]]から始まるとされる。庶民は富士山への[[信仰]]を強くし、特に[[江戸]]の各地には富士山を遥拝する[[富士塚]]が多く作られた。富士塚は土を盛って作られた[[人工]]の小さな[[山]]で、富士山がよく見えるところに作られ、[[山頂]]には浅間神社が祀られて、富士山に行くことが出来ない人たちでも擬似的に富士山の登拜を体験することができるようにするものである。
 
こうした富士山信仰の高まりを受け、江戸時代には富士山信仰を基盤とした神仏混交の新宗教が多数登場した。新宗教は江戸で布教を行い富士講を組織して、[[江戸幕府]]にとっても無視できない規模になることもあり、幕府が富士講禁制の[[町触]]を出すこともしばしばであった。例えば、{{和暦|[[1774}}年]](安永3年)から{{和暦|[[1849}}年]](嘉永2年)に、[[江戸町奉行所]]は7回の禁制の町触を出している。これらの新宗教は[[明治]]期の激動を潜り抜け、今でも実行教・丸山教・扶桑教などと脈絡を保ち続いている。
 
== 関連項目 ==