「小谷喜美」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2012年9月}}
'''小谷 喜美'''(こたに きみ、[[1901年]]([[明治]]34年)[[1月10日]] - [[1971年]]([[昭和]]46年)[[2月9日]])は、[[昭和]]の[[宗教家]]。
 
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== 来歴 ==
{{要出典範囲|date=2012年9月|[[神奈川県]][[三浦市]]に半農半漁の家庭に生まれる。早くして父を亡くし12歳で[[小学校]]を中退、叔母の家へ女中奉公に出る。5年後に上京し職を転々とした後、[[1925年]]に小谷安吉と結婚。学校の賄いとして働くが、安吉の腰痛をきっかけとして、安吉の弟[[久保角太郎]]に薦められて、夫婦で[[法華経]]による先祖の供養の行を始める。当初は久保角太郎に反発していた喜美であったが、安吉の腰痛の病状がみるみる快方に向かうのを目の当たりにして、自ら真剣に行じるようになった。その後一時は下宿屋の仕事を始めるが、物欲を離れ修行に専念せよとの久保の強い勧めに応じて、社会的弱者や貧者の気持ちを理解する意味も込めて、自ら一切の収入の道を断ち、夫婦共々赤坂の長屋で赤貧の中で修行生活を送ることになった。そんな中[[1929年]]に夫の安吉が死去するが、久保が課した厳しい修行に耐えながら霊能者・宗教家としての資質を開花していった。
 
その間、自らが乞食同然の生活をしながら、真冬でも近所の公園の公衆便所を素手で毎日掃除したり、都内の乞食集落に出向いて行っては、当初は馬鹿にされながらも毎日毎日諦めずに彼らに仏の教えによって自らの人生を切り開く道を説き続けた。最初は嘲笑していた乞食たちも、喜美のあまりの熱意と無欲な誠意に心打たれる者が続出し、乞食を辞めて真剣に仕事を始めて自立できるようになった者が相次いだ。喜美はこれらの経験を通じて、自らに何の権威も地位も財力も学識もなくても、ただ真心一つで、人の役に立てること、つまり、どんな人でも真心さえあれば法華経の菩薩行が実行できることを確信し、自らの行いをもってそれを示した。また、仏壇の前で法華経を熱心に唱え、幾度も幾度も畳に額を付けるあまり、畳は磨り減り、自身の額まで禿げ上がらせる程の強烈な修行を行った(写真でも額の毛髪が後退している)。
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[[1944年]][[11月18日]]に久保が死去。既に後継者として位置づけられていた久保の息子・[[久保継成|継成]]の後見役となると共に、久保が自らに課したように幹部や弟子に厳しい指導を行う。しかし、古い幹部の中には、喜美の強烈な個性に対する反発も少なくなかった。取り分け戦後霊友会に[[脱税]]や[[共同募金]][[横領罪|横領]]などの中傷スキャンダル事件が勃発したのを期に、多くの離反者と分派を生む結果となった。しかしながら、こうした離反に対しても喜美自身は超然とした態度をとり、晩年に至るまで自らの指導方針を変えようとはしなかった。
 
その後、[[1964年]]4月には[[明法中学・高等学校]]を設立。}}
 
=== 弥勒菩薩と小谷喜美 ===
{{要出典範囲|date=2012年9月|[[1964年]]5月には、仏教学者の[[渡辺照宏]]に依頼して、これまでの仏教諸経典中の[[弥勒菩薩]]に関する経典郡を集大成し、『弥勒経』として編纂出版した。これを期に、会員の日々の読誦の為の経典として、これまでの『[[青経巻]]』と『一部経([[法華三部経]])』に加え、新たに『弥勒経』が加わることになった。
 
[[1964年]]11月には伊豆の遠笠山に青年の修練道場として弥勒菩薩を祀った『弥勒山』を建立した。
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また、これからの世の中は精神的荒廃が進むと予見し、危機感を抱いていた小谷喜美が、五濁の悪世における弥勒菩薩の精神の重要性を確信し、次代を担う青年達が「懺悔の行」を実践しつつ、弥勒菩薩に象徴される慈悲と友愛の心を持って、愛と平和に満ちた世の中を構築していくことを期したという面もあったようである。
 
[[1971年]]2月3日の節分会において、喜美はほぼ別れの挨拶と思われる内容の話をし、その数日後の2月9日に突然の[[脳血管障害|脳卒中]]によって他界し、後を[[久保継成]]に託すこととなった。}}
 
{{先代次代|[[霊友会]]'''会長'''|1930-1971||[[久保継成]]}}