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== 概要 ==
中村茂は、
その後、中村は”久茂地の山原国吉(やんばるくにし)”こと、[[国吉真吉]]にも師事した。国吉真吉は、査氏国吉家の後裔で「武士国吉(クニシ)」ともあだ名される著名な武術家であった。那覇・久茂地村に住んでいたが60歳頃に名護に転居してきたので、中村は国吉に師事する事になった。国吉からはニーセーシ等の型を習った<ref>「古武道3・中村茂(67歳)ニセシ」『沖縄タイムス』1961年11月17日、参照。</ref>。中村はその後、さらに[[喜屋武朝徳]]や[[本部朝基]]らとも修業を重ねた<ref>同上。</ref>。
戦後、中村は、仲里常延(少林寺流)、島袋善良(少林流)らと共に[[保勇]]の招聘を受け、[[福岡県]]で開催された空手大会に参加した。
中村茂は沖縄の空手には本来流派ないという意味で「沖縄拳法」を名乗ったが、今日では「沖縄拳法」は中村茂の流派名としても認識されている<ref>『沖縄空手古武道事典』163頁参照。</ref>。中村茂は、戦後沖縄ではじめて防具付組手試合を始めた一人であり、「ティージクンデーイチ(手拳第一)」を理念とする実戦空手家でもあった<ref>同上。</ref>。中村は
== 脚注 ==
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