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|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1975}}
|ドラフト順位 = ドラフト4位
|初出場 = 1977年6月14日
|最終出場 = 1991年7月6日
|年俸 =
|経歴 = <nowiki></nowiki>
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==来歴・人物==
[[兵庫県立洲本実業高等学校|洲本実業]]から[[1976年]]に[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]に入団。強打の大型内野手として期待され、当時の[[土井淳]]監督からも、[[基満男]][[フェリックス・ミヤーン]][[田代富雄]][[高木豊]]と内野陣の選手層が厚かったため、当時の[[土井淳]]監督からも「ポジションがもう一つ欲しい」と言われていた。開幕スタメンを勝ち取ることもあったが、当時層が厚かった内野レギュラーにはなれず、[[1983年]][[レオン・リー]]との[[トレード]]で[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]に移籍。[[1985年]]に捕手に転向。その後[[1991年]]に[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]に移り、同年引退。引退後はオリックスのコーチ(1992年二軍コーチ補佐、1993年~1994年一軍バッテリーコーチ、1995年~1998年二軍バッテリーコーチ)や[[マスターズリーグ]]の[[福岡ドンタクズ]]などで活躍。少年野球講座などにも参加ている
 
*1989[[1985]]に捕手に転向。プロ野球で捕手から野手へのコンバート例多いが主にレギュラその逆は極めて珍しいケ出場ある。その為か、[[1986年]]には年間最多捕逸を記録た。1989年は1本塁打を放っているが、主にスタメンマスクを被っていた[[袴田英利]]と[[福澤洋一]]がともに0本塁打0であに終わったため、チームの捕手としては唯一の本塁打を記録したこととなている(なお、[[マイク・ディアズ]]はこの年は捕手で出場していない)。
==エピソード==
 
*ロッテ移籍後に捕手転向。プロ野球で捕手から野手へのコンバート例は多いが、その逆は極めて珍しい。その為[[1986年]]には年間最多[[捕逸]]を記録した。
その後、[[1991年]]に[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]に移り、同年引退。引退後はオリックスのコーチ(1992年二軍コーチ補佐、1993年~1994年一軍バッテリーコーチ、1995年~1998年二軍バッテリーコーチ)や[[マスターズリーグ]]の[[福岡ドンタクズ]]などで活躍。少年野球講座などにも参加している。
*1989年は、主にレギュラーで出場していた[[袴田英利]]と[[福澤洋一]]がともに本塁打0であったため、チームの捕手としては唯一の本塁打を放っている(なお、[[マイク・ディアズ]]はこの年には捕手で出場していない)。
 
== 詳細情報 ==
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=== 記録 ===
*初出場:1977年6月14日、対[[中日ドラゴンズ]]10回戦([[ナゴヤ球場]])、6回表に[[谷岡潔]]の代打として出場
*初打席:同上、6回表に[[戸田善紀]]の前に三振
*初先発出場:1977年7月9日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]10回戦([[松本市野球場|長野県営松本野球場]])、8番・[[遊撃手]]として先発出場
*初安打:1980年4月15日、対ヤクルトスワローズ1回戦(横浜スタジアム)、8回裏に[[松岡弘]]から
*初本塁打・初打点:1980年7月16日、対阪神タイガース14回戦(横浜スタジアム)、2回裏に[[大町定夫]]からソロ
 
=== 背番号 ===