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[[File:Genroku-koban.jpg|thumb|right|320px|元禄小判]]
'''元禄小判'''(げんろくこばん)とは[[元禄]]8年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]([[1695年]][[10月17日]])から通用開始された一[[両]]としての額面を持つ[[小判]]である。[[江戸時代]]の[[金貨]]としては[[慶長小判]]に次ぐものである。また元禄小判、[[元禄小判#元禄一分判|元禄一分判]]および[[元禄小判#元禄二朱判|元禄二朱判]]を総称して'''元禄金'''(げんろくきん)あるいは'''元字金'''(げんじきん)と呼ぶ。
 
== 概要 ==
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また、[[市場]]に[[流通]]する慶長小判は90年以上の流通により、磨耗、破損の著しいものが多くなり、切れ、軽め金などが大半を占めるようになり、修繕を必要とするものが多くなっていた。
 
そこで[[勘定吟味役]]の[[荻原重秀]]は貨幣の金銀含有量を下げ、通貨量を増大させる貨幣吹替え(改鋳)を行った。これは品位を低下させるものであるため、その秘密保持の観点および改鋳利益を確実に取集するという目的から、慶長期には自宅家業である手前吹きであった貨幣鋳造方式を改め、江戸[[本郷 (文京区)|本郷]][[霊雲寺]]近くの大根畑に建てられた吹所に金座人および銀座人を集めて鋳造が行われた。この吹替えは吹所の火災により元禄11年11月([[1698年]]12月頃)に終了し、金座人および銀座人は[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]および[[京都]][[両替町通|両替町]]の金座および[[銀座 (歴史)|銀座]]に復帰したが、以後も小判師を金座に集めて[[鋳造]]を行わせる直吹方式に変更することとなった<ref name="nishiwaki" />。
 
元禄8年8月7日(1695年9月14日)に出された金銀改鋳に関する触書は以下の通りであった<ref name=Sankazui /><ref name="taya" />。
* 一、金銀極印古く成候に付、可<sub>ニ</sub>吹直<sub>一</sub>旨被<sub>レ</sub>仰<sub>ニ</sub>出之<sub>一</sub>、且又近年山より出候金銀も多無<sub>レ</sub>之、世間の金銀も次第に減じ可<sub>レ</sub>申に付、金銀の位を直し、世間の金銀多出来候ため被<sub>ニ</sub>仰付<sub>一</sub>候事。
* 一、金銀吹直し候に付、世間人々所持の金銀、公儀へ御取上被<sub>レ</sub>成候にては無<sub>レ</sub>之候。公儀の金銀、先吹直し候上にて世間へ可<sub>レ</sub>出<sub>レ</sub>之候、至<sub>ニ</sub>其時<sub>一</sub>可<sub>ニ</sub>申渡<sub>一</sub>候事。以上
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この吹替えは慶長小判2枚の[[地金]]に[[灰吹銀]]を加えて新たに小判3枚を鋳造すれば通貨量は1.5倍となり、かつ幕府には吹替えによる出目すなわち改鋳利益が得られるというものであった<ref name="taya" />。ただし通貨の増大は[[インフレーション]]であり[[貨幣]]価値が低下するため、出目獲得と経済効果を狙った通貨増大は同時に達成できるものではないが<ref name="mikami">三上隆三 『江戸の貨幣物語』 [[東洋経済新報社]]、1996年</ref>、結果的には後述するように莫大な利益を幕府にもたらした。しかし交換に際し慶長金に対し1%の増歩しか付けられなかったため、交換は思うようには進捗せず、良質の慶長金を退蔵するものが多かったという。元禄金は量目([[質量]])こそ慶長金に等しかったが、金に対し[[密度]]の低い銀を多く含むため分厚く白っぽいものとなったため品位が低下したことは誰の目にも明らかであった。加えて脆く折れやすいものとなったため、評判は甚だ悪いものであった<ref name="mikami" />。
 
またこの吹替えにより、[[東北地方]]を中心とする[[米]]の不作による[[飢饉]]も重なり[[諸色]]の高騰を見たが、通貨量増大が経済発展に見合うものであったため、貨幣経済は発展し[[元禄文化]]が開花した。一方、[[丁銀]]の品位低下が4/5にとどまったのに対し、小判は2/3となったため、このアンバランスから元禄11年(1698年)頃より金一両=銀48-50[[匁]]前後と銀相場の高騰を見た<ref name="mikami" />。
 
一方で幕府は[[丁銀|銀]]、[[銭貨|銭]]相場を抑え、金一両の貨幣価値を維持するため、元禄13年11月([[1700年]]12月頃)に[[御定相場]]を金一両=銀60目に改正し、[[両替商]]に対し、金一両=銀58匁以下の銀高、金一両=銭3貫900[[文 (通貨単位)|文]]以下の銭高相場で取引することを禁じ、銭貨の増鋳を図った。しかし両替商間の相場は変動し御定相場を維持することはできず、銀遣いの[[上方]]では銀が払底し市場は混乱した<ref name="kobata">小葉田淳 『日本の貨幣』 至文堂、1958年</ref>。
 
また元禄の吹替えによる[[江戸幕府|幕府]]の得た利益は丁銀における出目を1両=60匁に換算して小判と合計すると、5,280,250両余となり<ref name="takizawa" />、新井白石による推定値500万両および荻原重秀による推定値580万両<ref name="mikami" />も遠からずということになる。
 
その一方で[[商人]]の中には良質の慶長金を退蔵する者が多かったため([[グレシャムの法則]])、宝永5年3月(1708年4-5月頃)には増歩を3%に、宝永6年6月([[1709年]]7月頃)からは10%まで引き上げ交換の促進に努力した<ref>『吾職秘鑑』</ref>。
 
小判および一分判の通用停止は[[享保]]2年末([[1718年]]1月30日)であった。
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== 元禄二朱判 ==
また元禄10年6月晦日([[1697年]]8月16日)にはそれまでの一分判に加えて、慶長金には存在しなかった[[二朱金|二朱判]]を鋳造開始し、同7月9日から通用開始された。
 
'''元禄二朱判'''(げんろくにしゅばん)は元禄小判と同品位、1/8の量目でもってつくられた長方形短冊形の二朱判であり、表面は上部に扇枠の桐紋、下部に横書きで「朱二」、裏面は「光次」とその右上に「元」の極印が打たれている。
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この新たな額面の貨幣は小額の取引には重宝するものであった。しかも二朱判への両替は元禄金(元禄小判、元禄一分判)に限定し、この元禄金の優位性から慶長金の回収を図ろうとする幕府の目論見でもあった。
 
通用が延期された小判および一分判とは異なり、二朱判は[[宝永]]の吹替えに伴い宝永7年4月15日([[1710年]]5月13日)に通用停止となった。
 
== 元禄金の量目および品位 ==
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規定品位は七十六匁七分位(金57.37%)、銀42.63%である<ref>[[金座]]『金位并金吹方手続書』</ref>。
 
[[明治時代]]、[[太政官]]のもと旧[[金座]]において江戸時代の貨幣の分析が行われた<ref>『旧金銀貨幣価格表』 [[太政官]]、1874年</ref>。元禄金についてその結果は以下の通りである<ref>『造幣局百年史(資料編)』 [[大蔵省]][[造幣局 (日本)|造幣局]]、19711974年</ref>。
*[[金]]56.41%
*[[銀]]43.19%
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== 関連項目 ==
*[[割り箸]] - 角を削ぎ落とした割り箸は、金品位を低下させた元禄小判に例えられる。
*[[元禄大判]]
*[[元禄丁銀]]
*[[二朱金|二朱判]]
*[[一分金|一分判]]
 
{{小判}}