「チュ・クオック・グー」の版間の差分
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{{特殊文字|説明=[[JIS X 0213]]、[[拡張漢字|CJK統合漢字拡張B]]、ラテン文字拡張}}
'''クオック・グー'''({{vie|v=Chữ Quốc Ngữ|hn=
[[1651年]]フランス人宣教師[[アレクサンドル・ドゥ・ロード]]が作成した『ベトナム語-ラテン語-ポルトガル語辞典』において、ベトナム語をラテン・[[アルファベット]]で表記したものに起源をもつ。[[ベトナム]]の[[仏領インドシナ|フランス植民地化]]後、公文書などで使用されるようになったことから普及し、[[1945年]]のベトナム独立時に[[漢字]]に代わりベトナム語を表記する文字として正式に採択され現在に至る。
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[[1651年]]に、フランス人宣教師[[アレクサンドル・ドゥ・ロード]]が、現在のクオック・グーの原型となるベトナム語のローマ字表記を発明したが、主にヨーロッパ宣教師のベトナム語習得用、教会内での布教用に使用されるのが主であり、一般のベトナム人に普及することはなかった。
こうした状況に変化を生じさせたのが、[[19世紀]]後半以降の[[フランス]]によるベトナム[[阮朝]]の植民地化である。まず、初めにクオック・グーの普及が始まったのは[[コーチシナ|南圻]](ベトナム南部)からである。フランスは、[[1862年]]の[[サイゴン条約]]によりフランスは[[サイゴン]](柴棍)など南圻一帯を領有することとなったが、領有と同時に当該地域での[[フランス語]]の公用語化、補助言語としてのクオック・グーによるベトナム語のローマ字表記化が図られた。[[1867年]]にはサイゴンにて、ベトナム初のクオック・グー紙である『嘉定報
[[1906年]]に、フランス当局はベトナム人植民地エリートの養生を目的として、フランス語、クオック・グー教育を柱とした「仏越学校」を設立した。しかし、クオック・グーは初等教育の3年間のみ教授され、漢文は中等教育での選択科目に留められるなど、フランス語を中心とした教育体制であることに変化はなかった。また[[科挙]]においても、漢文に加えて、クオック・グー、フランス語の課目が必修となった。
しかし、この時期、支配を受けるベトナム人知識人の間からもクオック・グーを蛮夷の文字として排斥するのではなく、むしろ受容することにより、ベトナム語の話し言葉と書き言葉を一致させて民族としてのアイデンティティを獲得しようとする動きも出てきた。[[1905年]]にはハノイで初めての漢文、クオック・グー併記の新聞『大越新報
フランス当局の後ろ盾により、総督府寄りの姿勢ではあったものの、クオック・グーを使用した文芸誌として、[[1913年]]にグエン・ヴァン・ヴィン(阮文永)主筆の『インドシナ雑誌(東洋雑誌
このように、クオック・グーが浸透した都市部では、新興のエリート層を中心にクオック・グーの識字率が高まり、伝統的な漢文・チュノム識字層を少しずつ圧倒していく形になった一方、地方では依然として漢学教育が権威をもっており、科挙の元受験生の私塾などに子を通わせる家庭も多かった。この時期には、識字率は低かったものの、クォック・グーと漢文・チュノムの両方(およびフランス語)を使いこなせるトップエリート層、漢文・チュノムしか読み書きできない伝統的な知識人層や、クオック・グーしか使いこなせない新興の知識人層が併存し、雑誌、書籍なども複数の文字により刊行されていた。
このような状況に終止符を打ったのが、[[1945年]]の[[ベトナム民主共和国]]の独立であり、政府は、識字率の向上を意図して、クオック・グーをベトナム語の公式な表記文字とすることを定めた。現在のベトナムでは漢字、漢文の使用は廃され、ベトナム語はもっぱらクオック・グーのみにより表記されている。
{{main2|詳細は[[漢文]]、[[チュノム]]も == 問題点 ==
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== 参考文献 ==
*村田雄二郎、C・ラマール編『漢字圏の近代
== 関連項目 ==
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