「安達泰盛」の版間の差分

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翌[[弘安]]8年([[1285年]])、頼綱は泰盛の子[[安達宗景|宗景]]が[[源氏|源]]姓を称した事をもって[[征夷大将軍|将軍]]になる野心ありと執権貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得た。11月17日、この日の午前中に松谷の別荘に居た泰盛は、周辺が騒がしくなった事に気付き、昼の12時頃、塔ノ辻にある出仕用の屋形に出向き、貞時邸に出仕した所を待ち構えていた御内人らの襲撃を受け、死者30名、負傷者10名に及んだ。これをきっかけに大きな衝突が起こり、将軍御所は延焼し午後4時頃に合戦は得宗方の先制攻撃を受けた安達方の敗北に帰し、泰盛とその一族500名余りが自害して果てた。頼綱方の追撃は安達氏の基盤であった上野・武蔵の他、騒動は全国に波及して泰盛派の御家人の多くが殺害された。
 
この[[霜月騒動]]と呼ばれる内乱の結果、平頼綱が実権を握り、泰盛を支持した幕府草創以来の有力御家人の多くが没落して得宗被官の[[長崎氏]]や文官の[[二階堂氏]][[長井氏]]が政治の中心となる。
 
頼綱は霜月騒動の7年後、[[平禅門の乱]]で貞時によって滅ぼされた。霜月騒動で失脚した御家人たちも徐々に復帰し、安達一族も泰盛の弟[[安達顕盛|顕盛]]の孫である[[安達時顕]]が安達家の家督を継承している。頼綱滅亡の翌年には騒動の罹災者の復権が進んだが、時顕が[[文保]]元年([[1317年]])に霜月騒動で討たれた父宗顕の33回忌供養を行った際の記録には、その頃まで泰盛の供養がタブーであった事が記されている。