「琉球の位階」の版間の差分

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===上級士族===
[[士族]]のことを、琉球では士(サムレー)と言い、俗にユカッチュ(良かる人、の意)とも言った。なお、士族という用語は、1869年(明治2年)に[[明治政府]]が各藩の藩士(一門から平士まで)の族称として用いたのが最初である。古琉球期には「下司(げす)」とも呼んだ。崇元寺下馬碑(1572年)に「あんしもけすもくまにてむまからおれるべし」(按司も下司もここにて馬から下りるべし)とある。
 
この下司と呼ばれる士族階層の中にはさらに、「あすたべ(三司官)」、「大やくもいた(大屋子もい達)」、「さとぬしべ(里主部)」、「げらへあくかべ(家来赤頭)」、「おゑか人」等の諸階層があった<ref>高良倉吉『琉球王国の構造』 吉川弘文館 1987年、132、133頁参照。</ref>。「あんしもけすも」とあるように、すでに16世紀初頭には、王族(按司部、思い子部)とそれ以下の士族階層とを区別する差別意識があったことがうかがえる。近世になると、下司はギシと発音して、主として地頭職にある上級士族を指すようになった<ref>『沖縄門中大事典』68頁参照。</ref>
 
正一品から従四品までの[[士族]]は上級士族に相当する。士族のエリートで国政の要職を司った。[[親方 (沖縄)|親方]]になると、原則として一間切を采地として賜り、[[総地頭]]と呼ばれた。しかし、これは建前で実際は采地の不足から、親方位であっても脇地頭にとどまる場合が多かった。脇地頭とは、間切内の一村を采地として賜る地頭職のことである。この場合は脇地頭親方と呼ばれた。『琉球藩雑記』([[明治6年]])によれば、王朝末期の時点で総地頭職にある親方が14名であるのに対して、脇地頭親方は38名と実に2倍以上に上っている。
 
[[親雲上]](ペークミー)は、一村を采地として賜り、脇地頭の職についた。黄冠を戴いた。親方、親雲上(ペークミー)とも、普通はその采地名から、それぞれ浦添親方、知花親雲上などと称するが、采地名が王子領と一致をする場合は同一の呼称をさけた。具体例で言えば佐敷間切の地頭が森山と、中城間切の場合は伊舎堂と称したごとくである。親方と地頭職にある親雲上の邸宅は[[殿内|殿内(トゥンチ)]]と呼ばれ、その家柄を言う場合には、一般に[[毛氏豊見城殿内|豊見城殿内]](とみぐすくどぅんち)や[[蔡氏儀間殿内|儀間殿内]](ぎまどぅんち)という言い方をした。
[[ファイル:Tei Junsoku.JPG|thumb|親方の図。[[程順則]]・名護親方。]]
*'''親方'''(ウェーカタ)
:士族が賜る最高の称号で、国政の要職についた。親方は世襲ではなく、功績のある士族が昇るものであったので、親方の子が必ず親方になるとは限らなかった。とはいえ、その大半はやはり首里を中心とした門閥によって世襲されていた。親方は紫冠を戴き、花金茎銀簪を差した。正二品以上に昇ると、金簪を差した。
 
:親方の称号は古くはなく、17世紀頃から使われ始めたようである。それ以前は、かなぞめ親雲上(紫の親雲上)と称した。これは紫冠に由来するものと思われる。親方は、『[[琉球国由来記]]』([[1713年]])の「官爵列品」の項目に、「この官爵(親方)、下種(げす)の極官なり」と説明があるように、士族が昇格できる最位であった。功績のある黄冠の士族に、特別に紫冠を賜ったのが親方の始まりとされる。
 
:王族が儀典関係の閑職につくのに対して、親方は政治の実務を担当し、投票で選ばれれば[[三司官]]に就任した。王子から親方までは、それぞれ一間切の領主とされていたので、琉球では'''大名'''(デーミョー)と呼ばれた。しかし、前述したように、には脇地頭職に留まる「[[小名]]級」の親方の方が多かった。
 
*'''親雲上'''(ペークミー・ペーチン)