「琉球の位階」の版間の差分

:基本的に国王の子、王叔、王弟の[[称号]]および位階名である。[[正室]]の子を直王子、[[側室]]の子は脇王子といった。また[[世子]](世継ぎ)は中城(ナカグスク)間切を[[采地]]としたため、特に[[中城王子]]と呼ばれた。王子は一代限りで、王子の子は[[按司]]となった。
 
:琉球で王子の称号使用開始われだしたのは、[[明]]の[[冊封]]を受けて、王号が使用さ出しはじめた以降のことである。実際に王子号が用いられるようになったのは、第二尚氏王統が始まってしばらく経ってからと考えられている。第3代[[尚真王]]の時代に建立された[[玉陵の碑文]]([[1501年]])には、「中くすくのあんし まにきよたる(中城の按司・真仁堯樽、後の[[尚清王]])とあるように、王子のことをまだ「あんし(按司)」と表記している。
 
:後世の史書では、第一尚氏王統下の王の子や第二尚氏王統初期の頃の王の子にも王子号を用いているが、これは史書編纂の折、王子に相当する人物ということで王子号を用いたのであろう。実際には当時は王の子たちも按司を称していたと思われる。
 
:王子は、他に功績のあった按司、[[江戸上り]]の正使に任命された者、摂政に就任した按司なども賜った。この場合は、従王子と呼ばれた。[[羽地王子朝秀]]などがその例である。王子は赤地金入五色浮織冠を戴き、金簪を差した。
 
*'''按司'''(アジもしくはアンジ)
:王族のうち、王子に次ぐ称号および位階名で、王子や按司の嗣子がなった。つまり、按司は王家の分家当主が賜るもので、日本の[[宮家]]当主に相当する。按司はアジまたはアンジと発音し、主(あるじ)からの転訛とも言われている。それゆえ、按司は[[当て字]]である。
 
:元来、[[按司]]は地方の支配者やその家族など、支配者階級にある人物の称号であったが、第二尚氏王統下になると、もっぱら王族の称号および位階名となっていった。玉陵の碑文には、王の子並びに世添御殿の大按司、聞得大君の按司、佐司笠の按司というように、王母、上級神女の敬称辞としても按司が使われている。前項で見たように王の子はのちに王子と称するようになった。
正一品から従四品までの[[士族]]は上級士族に相当する。士族のエリートで国政の要職を司った。[[親方 (沖縄)|親方]]になると、原則として一間切を采地として賜り、[[総地頭]]と呼ばれた。しかし、これは建前で実際は采地の不足から、親方位であっても脇地頭にとどまる場合が多かった。脇地頭とは、間切内の一村を采地として賜る地頭職のことである。この場合は脇地頭親方と呼ばれた。『琉球藩雑記』([[明治6年]])によれば、王朝末期の時点で総地頭職にある親方が14名であるのに対して、脇地頭親方は38名と実に2倍以上に上っている。
 
[[親雲上]](ペークミー)は、一村を采地として賜り、脇地頭の職についた。黄冠を戴いた。親方、親雲上(ペークミー)とも、普通はその采地名から、それぞれ浦添親方、知花親雲上などと称するが、采地名が王子領や王家直領と一致をする場合は同一の呼称をさけた。具体例で言えば佐敷中城間切(中城王子領)の地頭が森山と伊舎堂中城佐敷間切(王妃領)の場合は伊舎堂森山と称したごとくである。親方と地頭職にある親雲上の邸宅は[[殿内|殿内(トゥンチ)]]と呼ばれ、その家柄を言う場合には、一般に[[毛氏豊見城殿内|豊見城殿内]](とみぐすくどぅんち)や[[蔡氏儀間殿内|儀間殿内]](ぎまどぅんち)という言い方をした。
[[ファイル:Tei Junsoku.JPG|thumb|親方の図。[[程順則]]・名護親方。]]
*'''親方'''(ウェーカタ)
 
*'''里主'''(サトゥヌシ)
:里之子と同じ発音であるが意味は異なる。里主とは総地頭家や脇地頭家の嗣子で、家督を継いだがいまだ黄冠以下の位階(正従八・九品)の低い者を指す。例えば、親方家や親雲上家など、采地を有する名家を継いだが、当主はいまだ若年であるような場合に、里主と称したようである。里主とは、元来は[[領主]]の意である。
 
:琉球の位階制度は、昇進速度が年限によって決められていたので、名家の家督を継いでも直ちに特進するわけではなかった。按司の嗣子は初位から按司に陞るが、これは例外である。
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