「労働者階級戦闘団」の版間の差分

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| 兵力 = 約210400,000人(最盛期)
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'''労働者階級戦闘団'''(ろうどうしゃかいきゅうせんとうだん ドイツ語:Kampfgruppen der Arbeiterklasse, KdA)とは、[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)に存在した[[準軍事組織民兵]]である。[[1953年]]に設立され[[1990年]]の[[ドイツ再統一]]に伴って解散した。最盛期にはおよそ400000人もの[[義勇兵]]が所属していた。
 
==歴史==
[[File:Bundesarchiv Bild 183-85458-0003, Berlin, Mauerbau, Kampfgruppen, NVA, VP.jpg|thumb|[[国家人民軍]]の兵士と会話するKdA隊員。([[961年]])]]
KdAは[[1953年]][[6月16日]]の[[東ベルリン暴動]]を受け[[1953年ドイツ社会主義統一党]][[9月29日]]か(SED)では更なる暴動を阻止するべく、労働者の中に党の支配を行き渡せる様々な政策を考案した。政治的に信頼しうる労働者による党指導下の民兵編成が始たその一環で[[1954年]][[5月1日]][[メーデー]]記念パレード民兵組織じめて公的な場に姿を現し'''労働者階級戦闘団'''(Kampfgruppen der Arbeiterklasse, KdA)という名称が与えられた。KdAは[[チェコスロバキア]]において[[1948年]]権力掌握に貢献した[[チェコスロバキア共産党]]の[[人民民兵]]と同等の役割を果たす事が期待された。、[[1953年]][[9月29日]]より正式に編成が始こう。そた組織の編成はて[[1954年]][[5月1日]]、[[共産主義メーデー]]を受記念式典にお入れた東るパレーイツ国民たちにて初めて公気風姿を現したのであった
 
[[1957年]]にはKdA指導者中央学校が[[シュマーヴィッツ]]に設置された。KdAの[[機関紙]]「Der Kämpfer」は、[[ドイツ社会主義統一党]](SED)の機関紙と共にノイエス·ドイチュラント出版社によって月刊で発行されていた。KdAの活動として最もよく知られているのは[[1961年]]の夏から秋にかけて行われた[[ベルリンの壁]]建設工事であろう。最も練度が高く、また政治的に信頼されていた[[ザクセン州]]のKdAが[[チューリンゲン]]から[[東ベルリン]]にかけての建設作業及び市街警備に参加した。この作業には東独における全軍事組織の20%が参加し、KdAからは8000人以上が参加した。しかし、士気や政治的信頼性が共に高かったにもかかわらず、壁における6週間の勤務期間の最中8人のKdA隊員が西側へ脱走している。
 
[[1980年代]]後半、SEDが政治的影響力を喪失する中でKdAの存在意義もまた失われていった。[[1989年]]に[[ライプチヒ]]の[[聖ニコライ聖堂|ニコライ教会]]などでにて行われた反体制への抗議活動が行われる[[1989年]]頃には、既にKdAは組織としての機能を失っており、多くのKdA隊員が抗議活動に身を投じ参加し、また一部はデモ行進にも参加し身を投じていた。1989年11月9日から10日にかけては[[ベルリン崩壊後、SED|ベルリンの壁急速に政治的影響力を喪失崩壊]]していく中で、KdA東独必要性崩壊は決定的なまた失われのとなった。1989年12月には[[人民議会 (東ドイツ)|人民議会]]にてKdAの解散が正式に決定し、12月中に[[国家人民軍]]と共に武装解除が行われた。[[1990年]]5月にKdAが解散された時、KdAに所属する隊員は189370人だったという。
 
==海外援助==
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==命令系統と任務==
KdAはSED中央委員会(Zentralkomitee, ZK)によって指導されていた為、KdAはSEDの軍事部門、すなわち隊」としての側面もあった。KdAに対する命令および決定は中央委員会政治局が司っていた。また中央委員会政治局では安全保障委員会(Sicherheitskommission)を通じて国家人民軍など東独における全軍事部門の監査も担っていた。
 
==隊員資格==
[[Image:Stamps of Germany (DDR) 1978, MiNr Zusammendruck 2357-2358.jpg|thumb|300px|KdA25周年記念切手]]
[[1989年]]の段階で、KdA隊員はおよそ21万人を数え、そのうち勤の隊員はおよそ187000人であが訓練ないし任務に当たていた。隊員の募集は工場や企業内の党支部によって行われた。基本的に志願制だったが、SED党員は志願が義務化されていた。また非党員であっても[[労働組合]]に相当する[[自由ドイツ労働者連盟]](Freier Deutscher Gewerkschaftsbund, FDGB)によって事実上参加志願強制推奨されていた。年齢制限は25歳から60歳で、若い隊員は軍務に就かない場合、[[スポーツ及び技術協会]](Gesellschaft für Sport und Technik, GST)なる機関の一員として勤務した。また衛生及び輜重の部門では女性隊員も盛んに採用された。
 
==組織==
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KdAの隊員には毎年136時間の訓練が義務付けられており、隊員は仕事の後や週末などの空き時間を利用して訓練に参加した。また訓練の一環として、毎年野戦訓練キャンプが開催された。
 
KdAは警察と同様の対暴動装備を有していた他、[[SK-1]]装甲車、[[SK-2]]放水車、82mm迫撃砲、76mm対戦車砲、23mm及び37mm高射砲などを有していた。[[1950年代]]から[[1960年代]]にかけては[[第二次世界大戦]]後に余剰となったソ連製火器及びドイツ製兵器で武装した。[[kar98k]]、[[モシン・ナガン]]、[[PPSh-41]]などで武装しが用いられたが、後に[[AK-47]]などソ連製兵器で更新された。
 
==階級==
[[Image:KGA-ranks de.png|thumb|300px|KdAの階級]]
一部の階級は兵科や職務によって呼称が異なる。
* Truppführer/Gruppenführer/Geschützführer/Werferführer - 分隊指揮官/集団指揮官/砲兵指揮官/迫撃砲兵指揮官
* Zugführer - 小隊長