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自らの悪政により、不満を募らせた諸侯に背かれた周の[[幽王_(周)|幽王]]が、[[紀元前771年|前771年]]に殺されると、翌年に幽王の息子は[[鄭]]の[[武公 (鄭)|武公]]らの力を借りて[[洛邑]]に周を再興する。これが[[平王 (周)|平王]]であり、以降の周は'''東周'''と呼ばれ、これからが春秋時代の始まりである。
 
周の東遷に大きく貢献した鄭の武公はこの後、権勢を振るったが、大きすぎる功績により周王から、かえって疎んじられた。武公の子の[[荘公 (鄭)|荘公]]の代で、周の[[桓王 (周)|桓王]]による討伐を受けるも、撃退に成功した。この時に追撃するべきとの家臣の言葉に荘公は「天子に対してそのようなことは良くない」と答えた。この逸話は、一つは周王の権威の大幅な暴落権威失墜を表しているしす一方もう一つはそれでも諸侯は周王に対する諸侯の間の敬意未だ残っ抱いていたことも表している。ただ、その鄭の国威も荘公以降はあまり振るわなくなる。鄭は王室の卿士(王室直属。[[日本]]でいえば[[旗本]])の家柄であったが、その統治所領は狭く、国力自体は中の下という程度であった為である。
 
鄭に代わって覇権を握るのが東方の大国・[[斉 (春秋)|斉]]である。周建国の大功臣・[[呂尚|太公望]]を始祖とする斉は東の未開地帯を大きく広げ、国力を充実させていた。15代目[[釐公 (斉)|釐公]]の死後に後継争いで国内が混乱するが、内乱を収めた[[桓公 (斉)|桓公]]とその[[中国の宰相|宰相]]・[[管仲]]の活躍により、大きく飛躍する。当時、南方で周辺小国を呑み込んでいた参の興国・[[楚 (春秋)|楚]]が大きく勢力を伸ばし、さらに中原の小国に対してへの侵攻の気配を見せていた。それら小国は助けを求めようものの本来頼るべき周は小さくなった王室の中でなお権力争いを続けている有様であり、頼れる相手がいない楚の威圧に怯えた小国は仕方なく楚に服従していた。しかし斉に桓公が登場し、楚に対抗したことでこれら小国は斉に助けを求めるようになった。桓公は楚と対決した桓公は、召陵において楚の周に対する無礼を咎め、楚の侵攻を抑えた。このことで桓公はれにより諸侯間の盟主となり成った桓公は、[[紀元前651年]]に葵丘(現在の[[河南省]]藺考)において[[会盟]]を開き、周王に代わって諸侯の間の取決めを行った。この業績により桓公は[[覇者]]と呼ばれ、[[春秋五覇]]の第一に数えられる。
 
しかし桓公は、管仲の死後人が変わったように堕落した桓公により国政は乱れ、さらに桓公死後の後継争いで斉は一気に覇権の座から滑りちてまった。これに代わって覇者になろうとしたのが[[宋 (春秋)|宋]]の[[襄公 (宋)|襄公]]である。宋は[[殷]]の遺民たちの国であり、国力は中程度という宋った襄公は高い志を持っており、桓公の後を継いで天下のことを治めよういう高い志を抱いていた。まず斉の後継争いに介入、元より太子とされて宋に預けられていた昭を位に就けて孝公とした。さらに諸侯の盟主となるべく盂(河南省睢)にて会盟を開いた。しかし、この会盟に参加していた楚の重臣は主導権を握られることを嫌って襄公をいた、参加国の楚の重臣に監禁されてまった。襄公はいったん帰国して楚と決戦に及ぶ([[泓水の戦い]])を行うが、敵に情けをかけた結果(宋襄の仁)大敗し覇権の獲得は不可能に成らった。
 
桓公に続く第二の覇者となるのが北の大国・[[晋 (春秋)|晋]]の[[文公 (晋)|文公]]である。晋は[[武公_(晋)|武公]]・[[献公_(晋)|献公]]の2代に亘って周辺諸国を併合して大きく伸張したが、献公の愛妾・[[驪姫]]が起こした騒動により、文公たち公子は国外へ逃亡した。文公は異国にあること10数年にわたり、苦労の果てに隣国[[秦]]の助力を借りて晋公の座に就いた。文公は君主の地位に就いた文公は後に周王室の内紛を収め、楚との[[城濮の戦い]]で大勝し、践土(河南省温県)に周の[[襄王 (周)|襄王]]を招き、会盟を開いて諸侯の盟主となった。文公は桓公と並んで春秋五覇の代表であり、'''斉桓晋文'''と称される。
 
文公と前後して活躍したのが、西の大国・秦の[[穆公 (秦)|穆公]]である。穆公は西の[[西戎|戎]]と戦って勝利し、[[百里奚]]などの他国出身者を積極的に起用し、小国を併合して領土を広げた。また驪姫の乱で混乱した晋に[[恵公 (晋)|恵公]]を擁立し、後に恵公が背信を繰り返すとこれを韓の地で大破し、その死後、今度は恵公の兄を即位させ晋の文公とした。秦の穆公と晋の文公の関係は良好であったが、文公の死後に再び両国の関係は悪化し、穆公はまたもや晋を大いに破っている。だが穆公死去後、家臣のほとんどが[[殉死]]したため秦は大きく後退した。
 
次に覇権を握るのが、南の大国・楚の[[荘王 (楚)|荘王]]である。楚はもともと周から封建された国ではなく、実力により[[湖北省|湖北]]・[[湖南省|湖南]]を押さえてた経緯の為王として認知されていなかった。周より子爵の位を周より授かったが、国力に対して位が低すぎるとして自ら王を名乗るようになったのである。荘王は今まで朝廷にはびこっていた悪臣たちを一挙に排除し、有能な人材を登用した。国内を治めた荘王は豊富な兵力をもって北上して周辺の小国を威服させ、洛陽近くで大閲兵式を行って周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た晋軍を[[邲の戦い|{{lang|zh|邲}}]](び、{{lang|zh|邲}}は必におおざと)で大破した。この勝利により中原の小国は楚に服従した。
 
=== 中期・小国外交の時代 ===