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====社会主義時代====
{{Main|ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ホロドモール|カルパト・ウクライナ|ウクライナ蜂起軍}}
[[File:Kiev-MonumentVictimsHolodomor1932-33 01.jpg|thumb|
[[1922年]][[12月30日]]に[[ウクライナ社会主義共和国]]は、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア]]、[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|ベラルーシ]]、[[ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国|ザカフカス]]と共に同盟条約によって[[ソビエト連邦]]を結成した<ref>中井 1998:313.</ref>。諸共和国は平等の立場で新しい[[国家連合]]を形成したが、その国家連合は[[ソ連憲法]]制定によってロシアを中心とする[[中央集権]]的なシステムに変遷し、その他の独立共和国はロシアの自治共和国となった<ref>中井 1998:314.</ref>。
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一方、西ウクライナは[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]、[[ルーマニア王国|ルーマニア]]、[[チェコスロバキア]]によって分割された。[[1921年]]から[[1939年]]にかけてポーランドは[[ヴォルィーニ]]・[[ガリツィア|ハルィチナー]]地方、ルーマニアは[[ブコビナ]]地方、チェコスロバキアは[[ザカルパッチャ]]を支配した。
====第二次世界大戦====
{{main|第二次世界大戦|独ソ戦|ウクライナ蜂起軍}}
[[画像:Upa 1943.jpg|thumb|200px|[[ウクライナ蜂起軍]]の戦士 (1943年12月、テルノーピリ州、スーラジュの森)。]]
[[1939年]][[8月24日]]に[[ソ連]]と[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]は[[独ソ不可侵条約|不可侵条約]]を締結し、東欧における独ソの勢力範囲を定めた。同年[[9月1日]]にドイツ、[[9月17日]]にソ連は[[ポーランド侵攻|ポーランドを侵略した]]。その結果ポーランドは分割され、ウクライナ人が多数派だった西[[ヴォルィーニ]]地方と[[ガリツィア]]地方はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に併合された<ref>[http://uris.org.ua/istoriya-gosudarstva-i-prava-ukrainy/priednannya-zahidnoyi-volini-ta-shidnoyi-galichini-do-skladu-ursr ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ西ヴォルィーニ地方とガリツィア地方の併合 (ウクライナ語)]</ref>。ドイツが[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランスを占領]]した後、[[1940年]][[6月28日]]にソ連は[[ルーマニア]]へ侵攻した。これによって北[[ブコヴィナ]]地方と北[[ドブロジャ]]地方はウクライナ共和国に編成されたが、[[沿ドニエストル]]地方はウクライナから[[モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国]]へ割譲された。[[1940年]][[7月14日]]にソ連軍は[[バルト三国]]を占領し、[[1941年]][[6月1日]]にドイツ軍は[[バルカン半島]]を支配下においた。独ソ両国は共通の国境と、征服された地域を「解放」するために互いに攻め入る口実を得た。
1940年[[12月18日]]にドイツは[[バルバロッサ作戦]]を決定し、1941年[[6月22日]]にソ連へ侵略した。[[イタリア]]、ルーマニア、[[ハンガリー]]などはドイツ側に対し軍事的支援を行った。[[独ソ戦]]は4年間に続き、ウクライナを中心とした地域に行われた。当初、ウクライナ人は[[共産党]]の支配からウクライナを解放してくれたドイツを支援したが、ドイツはウクライナの独立を承認せず、ソ連と同様な支配体制を敷いたため、ウクライナ人の反感を買った。1941年[[9月19日]]に[[ドイツ軍]]は[[キエフの戦い (1941年)|キエフ]]と[[右岸ウクライナ]]を占領し、[[10月24日]]に[[ハリコフ攻防戦|ハルキウ]]と[[左岸ウクライナ]]を奪い取り、[[1942年]]7月までに[[クリミア半島]]と[[クバーニ]]地方を支配下に置いた。[[1943年]]2月にソ連軍は[[スターリングラード攻防戦]]においてドイツ軍の侵攻を食い止め、同年8月に[[クルスクの戦い]]でドイツ軍から戦争の主導権を奪った。[[1943年]][[11月6日]]にソ連は[[ドニエプル川の戦い|キエフを占領]]し、[[1944年]]5月にかけて[[カメネツ=ポドリスキー包囲戦|右岸ウクライナ]]とクリミアを奪還した。同年8月にソ連軍は[[リヴィウ=サンドミェシュ攻勢|西ウクライナを完全に支配下]]に置き、ドイツが占領していた中欧の諸国への侵攻を開始した。[[1945年]][[5月2日]]にソ連はドイツの首都[[ベルリンの戦い|ベルリンを陥落]]させ、[[5月8日]]にドイツ側の[[無条件降伏]]により独ソ戦が終結した。ソ連側の勝利によってウクライナにおける共産党の支配が強化され、国際社会におけるソ連の役割が大きくなった。中欧の諸国では[[ワルシャワ条約機構|ソ連系の政権]]が確立した。
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[[第二次世界大戦]]においてウクライナは莫大な損害を蒙った。戦争の犠牲者は800万人から1400万人までとされている<ref name="loss">[http://www.history.vn.ua/book/ukrzno/141.html 第二次世界大戦におけるウクライナの損害 (ウクライナ語)];[http://www.pravda.com.ua/articles/2010/05/7/5017138/ 「第二次世界大戦におけるウクライナの損害」『ウクライーンシカ・プラーウダ』(ウクライナ語)、2010年5月7日]</ref>。[[ウクライナ人]]の間では5人に1人が戦死した<ref name="loss"></ref>。ウクライナ系の[[ユダヤ人]]や[[ロマ|ロマ人]]などの共同体は完全に破壊された<ref name="loss"></ref>。戦争後、ソ連政府はウクライナ在住の[[ドイツ人]]や[[クリミア・タタール人追放|クリミア・タタール人]]などの[[追放]]を行った。独ソ両軍の進退によってウクライナの地は荒れ果てた。700の市町と、約2万800の村が全滅した<ref name="loss"></ref>。独ソ戦中にウクライナ人はソ連側の[[赤軍]]にも、ドイツ側の[[第14SS武装擲弾兵師団|親衛隊]]にも加わった。また、ウクライナ人の一部は反ソ反独の[[ウクライナ蜂起軍]]に入隊し、独立したウクライナのために戦った<ref>„Ukrainian Insurgent Army“: [http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?linkPath=pages\U\K\UkrainianInsurgentArmy.htm] ''Encyclopedia of Ukraine''.</ref>。
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File:Spotkanie Sojuszników.jpg|<center>[[ポーランド侵攻|ポーランド分割]]
File:Kiev BabiYar Victims Monument 070613.jpg|<center>[[バビ・ヤール|バービン・ヤール]]
File:Dayosh Kiev.jpg|<center>[[ドニエプル川の戦い|ドニプロ川の戦い]]
File:Dyvizia Galychyna-rukav.svg|<center>[[第14SS武装擲弾兵師団|ウクライア系親衛隊]]の章
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====戦後====
[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシア共和国]](現[[ベラルーシ]])と共にソ連とは別に[[国際連合]]加盟国として国連総会に議席を持った。[[1948年]]から2年間と[[1984年]]から2年間は[[非常任理事国]]も務めている。しかし現実は、ウクライナは相変わらず「ソ連の一部」止まりであり、「ロシア化」が進められた。[[1956年]]の[[ハンガリー動乱]]や[[1967年]]の[[プラハの春]]のさいは、ウクライナで威嚇の為の大軍事演習が行われたり、ウクライナを経由して東欧の衛星国へ戦車が出撃している。[[1953年]]のスターリンの死後に、大粛清の犠牲になった多くのウクライナ人の名誉回復がなされ、また徐々にウクライナ文化の再興が水面下で活発化した。1960年代には体制に批判的な、または「ウクライナ的な」文学も登場した。[[ニキータ・フルシチョフ]]の「脱スターリン主義」の時代には、ウクライナ・ソヴィエト政府もこのような動きを少なからず容認した。しかし[[レオニード・ブレジネフ]]の「停滞の時代」になると、[[1972年]]にウクライナ人知識階級が大量に逮捕されるという事件が起こる。[[1976年]]には人権擁護団体「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」が結成されるが、それも弾圧された。
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