「武田元繁」の版間の差分

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| 死没 = [[永正]]14年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]([[1517年]][[11月5日]])
| 改名 =
| 別名 = 元重、太郎左衛門、刑部
| 諡号 =
| 戒名 =
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| 幕府 =
| 主君 =
| 氏族 = [[清和源氏]][[源義光|義光流]][[武田氏]]
| 父母 = 父:[[武田元綱]]
| 兄弟 = '''元繁'''、[[小河内繁継]]?
| 妻 = 正室:[[大内義興]]養女(実[[飛鳥井雅俊]]女)<br>後室:[[尼子久幸]]女
| 妻 =
| 子 = '''[[武田光和|光和]]'''、武田下野([[伴繁清]]?)、[[高杉春時]]?
| 特記事項 = [[高杉晋作]]を出した高杉家家伝では高杉家祖と伝える
| 特記事項 =
}}
 
'''武田 元繁'''(たけだ もとしげ)は、日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[武田氏#安芸武田氏|安芸武田氏]]当主。[[武田元綱]]の嫡子。[[安芸国]]の分郡[[守護]]。[[正室]]は[[大内義興]]の養女である[[飛鳥井雅俊]]の娘。後室は[[尼子久幸]]の娘。子に[[武田光和]]。智勇に優れた武将で、全盛期には[[中国]]の[[項籍|項羽]]とも並ぶ武勇の持ち主と恐れられたという。
 
== 生涯 ==
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10月21日、元繁は総勢5,000とされる大軍を率いて有田城を包囲。同時に、[[熊谷元直 (戦国時代)|熊谷元直]]に兵を与えて救援に来る毛利・吉川軍の迎撃に当たらせた。しかし、幸松丸の[[後見役]]であった[[毛利元就]]の用兵により熊谷勢は壊滅、元直も討死した。敗戦の報に激昂した元繁は、翌22日に自ら主力軍を率いて毛利・吉川連合軍を攻撃する。武田軍は概ね優勢に戦を進めるが、少数ながら粘り強く抗戦する毛利・吉川軍を撃ち破るべく、自ら騎乗して又打川を渡ろうとした。元繁を先頭に渡河する武田軍に対して毛利軍が一斉に矢を放ち(流れ矢であるとも言われている)、矢を受けた元繁は又打川で落馬して討ち取られた。元繁を討ったのは、毛利勢の井上光政と伝えられる([[有田中井手の戦い]])。
 
元繁の討死後、安芸武田家は光和が相続した。しかし、この戦いを期に安芸武田氏は徐々に衰退し、数代後に強大化した[[毛利氏]]によって滅亡させに追いやられることになる。
 
== 脚注 ==