「市川團十郎 (5代目)」の版間の差分

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'''五代目 市川 團十郎'''(ごだいめ いちかわ だんじゅうろう、[[寛保]]元年[[1741年]] - [[文化 (元号)|文化]]3年[[10月30日 (旧暦)|10月30日]][[1806年]][[12月9日]]))〉)とは、[[江戸]]の[[歌舞伎]]役者。[[屋号]]は[[成田屋]]、[[俳名]]は梅童・男女川(おながわ)・三升・白猿。[[家紋|定紋]]は三升(みます)
 
== 来歴 ==
[[市川團十郎 (4代目)|二代目松本幸四郎]]の子として江戸に生まれる。はじめ市川梅丸の名を経て修業1745年([[延享]]2年(1745年)市川幸蔵の名で初舞台を踏む
[[俳名]]は梅童(ばいどう)・男女川(おながわ)・三升(さんしょう)・白猿(はくえん)、狂歌名は、花道のつらね、といい、堺町連という狂歌師のグループを形成した。
 
1754年([[宝暦]]4年(1754年)幸四郎が四代目團十郎を[[襲名]]すると同時に三代目[[松本幸四郎]]を襲名。市川家の[[御曹司]]として名を売る一方で着実に実力を上げ、1770年(た。明和7年(1770年)父が二代目松本幸四郎の名に復し、入れ替わりに江戸[[中村座]]で五代目市川團十郎を襲名、『[[暫]]』を初代團十郎から累代相伝の衣装で勤めた。父幸四郎2年後三代目[[市川海老蔵]]を襲名した後数年で隠居し、まもなく死去した。以後五代目は江戸歌舞伎の第一人者としてその屋台骨を支えた。
[[市川團十郎 (4代目)|二代目松本幸四郎]]の子として江戸に生まれる。市川梅丸の名を経て修業、1745年([[延享]]2年)市川幸蔵の名で初舞台。
 
洒脱な人柄で、1791年([[寛政]]3年(1791年)11月には江戸[[市村座]]で[[市川蝦蔵]]を襲名したが、これは「親父は海老蔵を襲名したが、おれはえびはえびでも雑魚えびの蝦」と遠慮したものだった。同時に俳名を白猿としたが、これにも口上で「祖父栢筵の音だけを頂戴し、名人には毛が三本足らぬおれは白猿」という主旨の言い訳を加え述べて周囲を煙に巻いている。跡取り息子が妾腹では世間体がどうかと、これをいったん門弟の[[市川升蔵|二代目市川升蔵]]に引き取らせたうえで、そこからいとこの[[芝居茶屋]]和泉屋勘十郎の養子に出し、数年後に改めておのれの養子として迎えるという手の込んだ気配りも見せた。この子の方にはしっかりと四代目市川海老蔵を襲名させ、[[数え]]十三になると[[市川團十郎 (6代目)|六代目市川團十郎]]の名跡を譲った。
1754年([[宝暦]]4年)父が四代目團十郎を[[襲名]]すると同時に三代目[[松本幸四郎]]を襲名。市川家の[[御曹司]]として名を売る一方で着実に実力を上げ、1770年(明和7年)父が二代目松本幸四郎に復し、入れ替わりに江戸[[中村座]]で五代目市川團十郎を襲名、『[[暫]]』を初代團十郎から累代相伝の衣装で勤めた。父は2年後三代目[[市川海老蔵]]を襲名した後数年で隠居し、まもなく死去した。以後五代目は江戸歌舞伎の第一人者としてその屋台骨を支えた。
 
1796年(寛政8年(1796年)に役者を引退し、成田屋七左衛門と名乗り向島反古庵に隠居した。しかし1799年(寛政11年(1799年)5月に六代目市川團十郎が数え廿二十二で急死すると、[[市川白猿]]の名で舞台に戻り老躯に鞭打って孫に芸を仕込んだ。翌年11月市村座の[[顔見世興行]]は、市川家元祖百年忌追善興行と孫の市川ゑび蔵[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]])の團十郎襲名披露興行を重ねた盛大なもので、白猿は孫の襲名披露口上と、恒例の顔見世[[だんまり]]<!--一幕に大伴山主--><!-- ??? -->にの役で1801年([[享和]]元年(1801年)[[河原崎座]]で[[桜田治助|三代目桜田治助]]作の『名歌徳三升玉垣』(めいかの とく みますの たまがき)般若五郎をつとめたのを最後に翌年引退した。
洒脱な人柄で、1791年([[寛政]]3年)11月には江戸[[市村座]]で[[市川蝦蔵]]を襲名したが、これは「親父は海老蔵を襲名したが、おれはえびはえびでも雑魚えびの蝦」と遠慮したものだった。同時に俳名を白猿としたが、これにも口上で「祖父・栢筵の音だけを頂戴し、名人には毛が三本足らぬおれは白猿」という主旨の言い訳を加えて周囲を煙に巻いている。跡取り息子が妾腹では世間体がどうかと、これをいったん門弟の[[市川升蔵|二代目市川升蔵]]に引き取らせたうえで、そこからいとこの[[芝居茶屋]]和泉屋勘十郎の養子に出し、数年後に改めておのれの養子として迎えるという手の込んだ気配りも見せた。この子の方にはしっかりと四代目市川海老蔵を襲名させ、[[数え]]十三になると[[市川團十郎 (6代目)|六代目市川團十郎]]の名跡を譲った。
 
1806年(文化3年、66歳で死去。[[辞世の句]]は「木枯らしに 雨もつ雪の 行衛かな」。また孫でこの年15歳になったばかりの[[市川團十郎 (7代目)|七代目團十郎]]の将来を祝福して「顔見世や 三升樽の 江戸のつや」と詠んだ。墓所は[[青山墓地]]
1796年(寛政8年)引退。成田屋七左衛門と名乗り向島反古庵に隠居した。しかし1799年(寛政11年)5月に六代目市川團十郎が数え廿二で急死すると、[[市川白猿]]の名で舞台に戻り老躯に鞭打って孫に芸を仕込んだ。翌年11月市村座の[[顔見世興行]]は、市川家元祖百年忌追善興行と孫の市川ゑび蔵の[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]襲名披露興行を重ねた盛大なもので、白猿は孫の襲名披露口上と、恒例の顔見世[[だんまり]]<!--の大伴山主--><!-- ??? -->に出る。1801年([[享和]]元年)[[河原崎座]]で[[桜田治助|三代目桜田治助]]作の『名歌徳三升玉垣』(めいかの とく みますの たまがき)の般若五郎をつとめたのを最後に翌年引退した。
 
細工をしないおおらかな芸風で、荒事の他、実悪、[[女形]]など様々な役柄をつとめ分け「東夷南蛮・北狗西戎・四夷八荒・天地乾坤」の間にある名人と評された。どんな役でもくさらず懸命につとめ、生活面も真面目で、多くの人たちから尊敬され「戯場の君子」とまで呼ばれた。文才もあり[[松尾芭蕉]]の作風を慕って[[俳諧]]をよくし、また'''花道のつらね'''の名で[[狂歌]]を詠み、[[立川焉馬]]、[[大田南畝|大田蜀山人]]ら一流の文化人との交流を持ち、堺町連という狂歌師のグループを形成した。『狂歌友なし猿』『市川白猿集』など著書も多数ある。18世紀後半における江戸歌舞伎の黄金時代を作り上げた名優であった。
1806年(文化3年)、66歳で死去。[[辞世の句]]は「木枯らしに 雨もつ雪の 行衛かな」。また孫でこの年15歳になったばかりの[[市川團十郎 (7代目)|七代目團十郎]]の将来を祝福して「顔見世や 三升樽の 江戸のつや」。
 
==所作 逸話 ==
寛政8年にいったん引退するその二、三年前のこと、白猿は中村座で[[鏡山物]]の岩藤を演じた。[[戯作者]]の[[山東京山]]は兄の[[山東京伝]]を誘ってこれを見物に出かけ、その幕間に楽屋で仕度をする白猿を訪ねた。しかしこのとき白猿は楽屋で岩藤の化粧をしながら、「普通の家ならばこの年になると息子に家督を譲って隠居する身でありながら、何の因果か、役者渡世に生まれたばかりに、恥ずかしげもなく女の真似をしています」と涙しながら話したということが、京山著の随筆『蜘蛛の糸巻』に記されている。
細工をしないおおらかな芸風で、荒事の他、実悪、[[女形]]など様々な役柄をつとめ分け「東夷南蛮・北狗西戎・四夷八荒・天地乾坤」の間にある名人と評された。どんな役でもくさらず懸命につとめ、生活面も真面目で、多くの人たちから尊敬され「戯場の君子」とまで呼ばれた。
 
== 参考文献 ==
文才もあり、[[松尾芭蕉]]の作風を慕って[[俳諧]]をよくし、また'''花道のつらね'''の名で[[狂歌]]を詠み、[[立川焉馬]]、[[大田南畝|大田蜀山人]]ら一流の文化人との交流を持った。『狂歌友なし猿』『市川白猿集』など著書も多数。18世紀後半における江戸歌舞伎の黄金時代を作り上げた名優であった。
*山東京山 『蜘蛛の糸巻』〈『日本随筆大成』第二期巻四〉 日本随筆大成刊行会、1928年
 
*[[野島寿三郎]]編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
墓所は[[青山墓地]]。
 
== 逸話 ==
引退直前の1793年(寛政5年)に、楽屋で『[[加賀見山旧錦絵]]』の岩藤の化粧をしながら「普通の家ならばこの年になると息子に家督を譲って隠居する身でありながら、何の因果か、役者渡世に生まれたばかりに、恥ずかしげもなく女の真似をしています。涙が流れて仕方ない」という意味の愚痴を[[戯作者]]の[[山東京山]]にこぼしたことが、[[達磨屋活東子]](だるまや かっとうし、本名:岩本佐七)編の[[叢書]]『[[燕石十種]]』の第二輯「蜘蛛の糸巻」に京山の回顧として収録されている。
 
{{松本幸四郎}}