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安海 (会話 | 投稿記録)
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'''谷 衛好'''(たに もりよし)は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。
 
[[美濃国|美濃]]の武士である福田正之(谷野親衛の次子)の子といわれる。[[近江]][[佐々木氏]]宗家の[[六角家]]に仕える伯父[[谷野綱衛]]の[[養子]]となって谷野姓を称したが、。しかし晩年の天正4年([[1576年]])頃に谷に改めたという。最初は美濃の斉藤道三から龍興までの美濃[[斉藤氏|斎藤家]]に仕えた。その滅亡後は織田信長に仕え、[[石山戦争]]では天正4年(1576年)5月に武功を挙げたことから信長より[[感状]]を与えられている。
 
信長の命令で羽柴秀吉が中国方面総司令官になると秀吉の与力となり、天正6年(1578年)に[[播磨国|播磨]][[平田城(播磨国)|平田城]]6000石の知行を与えられた。同年からの秀吉による[[三木城]]攻めにも参加し、9月に三木城の糧道を断つために賀状坂の付城に息子の衛友と立て籠もるが、[[別所長治]]ら三木城兵の抵抗にあって討ち死にした。享年50。