「ジョージ・マンク (初代アルベマール公)」の版間の差分
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[[Image:George Monck 1st Duke of Albemarle Studio of Lely.jpg|thumb|right|180px|初代アルベマール公ジョージ・
'''初代アルベマール公ジョージ・マンク(モンク<ref>発音は「{{IPA-en|Mʌŋk}}」となるので表音はマンクの方が正しいが、マンクとも表記されることがる</ref>)'''
== 生涯 ==
=== 王党派での経歴 ===
1608年、[[デヴォン|デヴォンシャー]]のマートンでサー・トマス・
イングランドでは[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の失政で反乱が頻発、
しかし、チャールズ1世は
=== 共和政時代 ===
釈放後は議会派の軍に属して少将となり、[[1647年]]にアイルランドに出兵して転戦、[[1649年]]に[[アイルランド・カトリック同盟]]の指導者[[オーウェン・ロー・オニール]]と和睦を結んで帰国した。続いて翌[[1650年]]に議会派の司令官[[オリバー・クロムウェル]]に従いスコットランドへ遠征、[[ダンバーの戦い]]でスコットランド軍を撃破した後はスコットランド駐留軍の指揮を任され、スコットランド各地を転戦して[[1652年]]までに[[スターリング (スコットランド)|スターリング]]・[[ダンディー (スコットランド)|ダンディー]]・[[アバディーン]]・[[オークニー諸島]]などを占領してスコットランドを平定した。翌[[1653年]]にクロムウェルが[[護国卿]]に就任すると、スコットランド代表として政権に加わりイングランド共和国の有力者となった<ref>清水、P166、P175 - P185、P211 - P213。</ref>。
[[1653年]]に第一次英蘭戦争が始まり[[イギリス海軍|イングランド海軍]]の新設称号であるジェネラル・アット・シーに任命、[[ポートランド沖海戦]]で重傷を負った[[ロバート・ブレイク]]に代わり[[オランダ海軍]]に立ち向かうことになった。オランダは[[マールテン・トロンプ]]提督が迎え撃ったが、
ジェネラル・アット・シー在任中はブレイクと共に海軍改革に力を尽くし、艦隊戦術は[[単縦陣]]を採用して縦列で相手に集中砲火を浴びせガッバードの海戦で成果を挙げた。この戦術はオランダもスヘフェニンゲンの海戦で採用、やがて単縦陣は世界の海軍の基本陣形となった。また、英蘭戦争を通して海上戦略も確立され、[[地中海]]の確保と制海権の獲得など、後にイギリス海軍で重要視される目標が立てられていった<ref>友清、P22 - P24、小林、P173、P184 - P191。</ref>。
=== 王政復古に尽力 ===
[[1658年]]、クロムウェルが死去して息子の[[リチャード・クロムウェル]]が護国卿となったが、軍部の反抗を抑えきれず翌[[1659年]]5月に退任すると権力闘争が起こり、クロムウェルの部下[[ジョン・ランバート]]が10月に[[クーデター]]で議会を解散させて軍事政権を樹立した。この間、スコットランドに留まっていた
翌[[1660年]]1月にスコットランドとイングランドの国境線である[[ツイード川]]を越えてイングランドに進出、支持を失ったランバートを捕らえてロンドン塔へ投獄、2月に[[ロンドン]]へ入った。そこで共和政に不満を持ち王政復古を望む国民の支持を背景に、クロムウェルに解散させられた[[長期議会]]を召集させて共和政から排除された[[長老派教会|長老派]]を含む議員を復帰させた。更に、3月に革命と無関係な議会形成を目標に議会を解散させて総選挙を実施、合わせてチャールズ2世に政界の混乱を避けるための恩赦実施などを打ち合わせ、4月にオランダのブレダでチャールズ2世が発した[[ブレダ宣言]]成立に繋げた。
そして、4月に王党派も復帰した議会が成立、5月の王政復古宣言を見届け、モンタギューの艦隊に乗ってイングランドへ帰国したチャールズ2世を出迎えて、大きな混乱も無く王政復古を実現させた。チャールズ2世からは恩賞として大将軍・寝室係侍従・アイルランド総督・主馬頭・ガーター騎士に叙任され、アルベマール公爵・トリントン伯爵・
翌[[1661年]]に軍隊の解散・再統合が行われ、
=== 晩年 ===
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9月に[[ロンドン大火]]が発生するとチャールズ2世から呼び戻され治安維持に当たり、翌[[1667年]]にオランダ艦隊が[[テムズ川]]河口付近の[[メドウェイ川]]を襲撃すると急遽現場の[[チャタム]]に向かい、陸に迫るオランダ海軍をチャタムから必死に砲撃して応戦したが、[[ネイズビー (戦列艦)|ロイヤル・チャールズ]]が敵に捕獲され[[リチャード (戦列艦)|ロイヤル・ジェイムズ]]と[[ロイヤル・キャサリン (戦列艦・初代)|ロイヤル・キャサリン]]を沈めるという屈辱的な結果に終わった([[メドウェイ川襲撃]])。戦後[[ブレダの和約]]で戦争は終結、以後は名目上の[[第一大蔵卿]]として実務は大蔵委員会に任せ、3年後の1670年に61歳で死去、[[ウェストミンスター寺院]]に埋葬された<ref>友清、P63 - P79、小林、P202 - P210。</ref>。
大将軍はチャールズ2世の庶子のモンマス公[[ジェームズ・スコット (モンマス公)|ジェームズ・スコット]]に、大蔵卿はチャールズ2世の側近[[トマス・クリフォード (初代クリフォード男爵)|トマス・クリフォード]]に、アルベマール公位は1人息子の[[クリストファー・
== 脚注 ==
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{{succession box | title=[[第一大蔵卿]] | before=[[トマス・ライアススリー (第4代サウザンプトン伯)|サウザンプトン伯]] | after=[[トマス・クリフォード (初代クリフォード男爵)|クリフォード男爵]] | years=1667年 - 1670年}}
{{s-reg|en}}
{{succession box | title=[[アルベマール公]] | before=新設 | after=[[クリストファー・
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{{Normdaten|TYP=p|GND=117600547|VIAF=12299115|LCCN=n/50/036273}}
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