「ジョージ・マンク (初代アルベマール公)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m編集の要約なし
1行目:
[[Image:George Monck 1st Duke of Albemarle Studio of Lely.jpg|thumb|right|180px|初代アルベマール公ジョージ・ンク([[ピーター・レリー]]画、1666年)]]
 
'''初代アルベマール公ジョージ・マンク(モンク<ref>発音は「{{IPA-en|Mʌŋk}}」となるので表音はマンクの方が正しいが、マンクとも表記されることがる</ref>)'''(George({{lang-en-short|George Monck, 1st Duke of Albemarle}}, {{IPA-en|Mʌŋk}}, [[ガーター勲章|KG]], [[1608年]][[12月6日]] - [[1670年]][[1月3日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の貴族・軍人。[[清教徒革命]]で軍人として出世、海軍の指揮も執り[[英蘭戦争]]で活躍、[[イングランド共和国]]末期の混乱を収拾して[[王政復古]]を実現させてアルベマール公爵家を興した。
 
== 生涯 ==
=== 王党派での経歴 ===
1608年、[[デヴォン|デヴォンシャー]]のマートンでサー・トマス・ンクの次男として生まれた。家庭は困窮していたため軍に入隊、[[1625年]]の[[バッキンガム公]][[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]]による[[スペイン]]の[[カディス]]遠征を始め、[[1627年]]の対[[フランス王国|フランス]]戦争にも従軍して[[ラ・ロシェル包囲戦]]における[[ユグノー]]([[プロテスタント]])救援のため[[レ島]]遠征に参戦、[[1629年]]に[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]軍に加わり[[八十年戦争]]でスペイン軍と戦い統率力を称賛され、[[1637年]]の[[ブレダ (オランダ)|ブレダ]]包囲戦で勇敢に戦い注目された。[[1638年]]に[[ドルトレヒト]]議会と諍いを起こしてイングランドへ帰国、ニューポート連隊中尉に就任した。
 
イングランドでは[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の失政で反乱が頻発、ンクはそれらの反乱鎮圧に駆り出され、[[1639年]]と[[1640年]]に[[スコットランド王国|スコットランド]]で勃発した[[主教戦争]]と、[[1641年]]の[[アイルランド同盟戦争]]では大佐としてオーモンド公[[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]]が率いる鎮圧軍の一隊であるレスター伯[[ロバート・シドニー (第2代レスター伯)|ロバート・シドニー]]の連隊に属して[[アイルランド王国|アイルランド]]へ出兵した。レスターはンクの冷静沈着さを称賛、空席となっていた[[ダブリン]]総督の座をンクに勧めた。
 
しかし、チャールズ1世はンクを採用せず別人を任命、ンクに就任を放棄させた。この行為からチャールズ1世に不満を抱くようになり、[[イングランド内戦]]では[[騎士党|王党派]]に属したが、[[1644年]]に王党派の軍が[[円頂党|議会派]]司令官の[[トーマス・フェアファクス]]に[[ナントウィッチの戦い]]で敗れると捕虜となり[[ロンドン塔]]に投獄、2年後の[[1646年]]に釈放され議会派に鞍替えした。
 
=== 共和政時代 ===
釈放後は議会派の軍に属して少将となり、[[1647年]]にアイルランドに出兵して転戦、[[1649年]]に[[アイルランド・カトリック同盟]]の指導者[[オーウェン・ロー・オニール]]と和睦を結んで帰国した。続いて翌[[1650年]]に議会派の司令官[[オリバー・クロムウェル]]に従いスコットランドへ遠征、[[ダンバーの戦い]]でスコットランド軍を撃破した後はスコットランド駐留軍の指揮を任され、スコットランド各地を転戦して[[1652年]]までに[[スターリング (スコットランド)|スターリング]]・[[ダンディー (スコットランド)|ダンディー]]・[[アバディーン]]・[[オークニー諸島]]などを占領してスコットランドを平定した。翌[[1653年]]にクロムウェルが[[護国卿]]に就任すると、スコットランド代表として政権に加わりイングランド共和国の有力者となった<ref>清水、P166、P175 - P185、P211 - P213。</ref>。
 
[[1653年]]に第一次英蘭戦争が始まり[[イギリス海軍|イングランド海軍]]の新設称号であるジェネラル・アット・シーに任命、[[ポートランド沖海戦]]で重傷を負った[[ロバート・ブレイク]]に代わり[[オランダ海軍]]に立ち向かうことになった。オランダは[[マールテン・トロンプ]]提督が迎え撃ったが、ンクは[[ガッバードの海戦]]に勝利、[[スヘフェニンゲンの海戦]]でもトロンプを討ち取り、[[1654年]]に[[ウェストミンスター条約]]を締結、オランダに対してイングランドが優位に立った。戦後はスコットランドに戻り総督として駐屯を続けた。
 
ジェネラル・アット・シー在任中はブレイクと共に海軍改革に力を尽くし、艦隊戦術は[[単縦陣]]を採用して縦列で相手に集中砲火を浴びせガッバードの海戦で成果を挙げた。この戦術はオランダもスヘフェニンゲンの海戦で採用、やがて単縦陣は世界の海軍の基本陣形となった。また、英蘭戦争を通して海上戦略も確立され、[[地中海]]の確保と制海権の獲得など、後にイギリス海軍で重要視される目標が立てられていった<ref>友清、P22 - P24、小林、P173、P184 - P191。</ref>。
 
=== 王政復古に尽力 ===
[[1658年]]、クロムウェルが死去して息子の[[リチャード・クロムウェル]]が護国卿となったが、軍部の反抗を抑えきれず翌[[1659年]]5月に退任すると権力闘争が起こり、クロムウェルの部下[[ジョン・ランバート]]が10月に[[クーデター]]で議会を解散させて軍事政権を樹立した。この間、スコットランドに留まっていたンクは大陸に亡命中の王党派と連絡を取り、スコットランドから南下して議会の召集を要求して12月に復活させた。一方、[[バルト海]]に派遣していた艦隊司令官[[エドワード・モンタギュー (初代サンドウィッチ伯爵)|エドワード・モンタギュー]]をイングランドへ呼び戻し、チャールズ1世の息子[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]ら王党派を迎え入れるよう命じて着々と王政復古への布石を打った。
 
翌[[1660年]]1月にスコットランドとイングランドの国境線である[[ツイード川]]を越えてイングランドに進出、支持を失ったランバートを捕らえてロンドン塔へ投獄、2月に[[ロンドン]]へ入った。そこで共和政に不満を持ち王政復古を望む国民の支持を背景に、クロムウェルに解散させられた[[長期議会]]を召集させて共和政から排除された[[長老派教会|長老派]]を含む議員を復帰させた。更に、3月に革命と無関係な議会形成を目標に議会を解散させて総選挙を実施、合わせてチャールズ2世に政界の混乱を避けるための恩赦実施などを打ち合わせ、4月にオランダのブレダでチャールズ2世が発した[[ブレダ宣言]]成立に繋げた。
 
そして、4月に王党派も復帰した議会が成立、5月の王政復古宣言を見届け、モンタギューの艦隊に乗ってイングランドへ帰国したチャールズ2世を出迎えて、大きな混乱も無く王政復古を実現させた。チャールズ2世からは恩賞として大将軍・寝室係侍従・アイルランド総督・主馬頭・ガーター騎士に叙任され、アルベマール公爵・トリントン伯爵・ンク男爵・ビーチャム男爵に叙爵され7000ポンドの年金も約束された。ンクに協力して王政復古に尽くしたモンタギューと秘書の[[サミュエル・ピープス]]も恩賞を与えられ、モンタギューは[[サンドウィッチ伯爵]]に叙爵、ピープスはイングランド海軍の官僚として出世していった<ref>友清、P37 - P47、小林、P192 - P195、清水、P263 - P267。</ref>。
 
翌[[1661年]]に軍隊の解散・再統合が行われ、ンクの歩兵連隊([[コールドストリームガーズ]])及び騎兵隊も対象となり、歩兵連隊は近衛歩兵連隊となり、騎兵隊は3個の近衛騎兵中隊に統合され第2中隊と改称、後に様々な編成を経て[[ライフガーズ]]へと至った。チャールズ2世からの恩賞は[[1663年]]にも与えられ、[[北アメリカ]]の[[カロライナ植民地]]の所有者8人のうち1人に選ばれた。現在の[[ノースカロライナ州]]にある[[三角江]]のアルベマール・サウンドはンクの爵位に因んで名付けられている<ref>友清、P51 - P53。</ref>。
 
=== 晩年 ===
32行目:
9月に[[ロンドン大火]]が発生するとチャールズ2世から呼び戻され治安維持に当たり、翌[[1667年]]にオランダ艦隊が[[テムズ川]]河口付近の[[メドウェイ川]]を襲撃すると急遽現場の[[チャタム]]に向かい、陸に迫るオランダ海軍をチャタムから必死に砲撃して応戦したが、[[ネイズビー (戦列艦)|ロイヤル・チャールズ]]が敵に捕獲され[[リチャード (戦列艦)|ロイヤル・ジェイムズ]]と[[ロイヤル・キャサリン (戦列艦・初代)|ロイヤル・キャサリン]]を沈めるという屈辱的な結果に終わった([[メドウェイ川襲撃]])。戦後[[ブレダの和約]]で戦争は終結、以後は名目上の[[第一大蔵卿]]として実務は大蔵委員会に任せ、3年後の1670年に61歳で死去、[[ウェストミンスター寺院]]に埋葬された<ref>友清、P63 - P79、小林、P202 - P210。</ref>。
 
大将軍はチャールズ2世の庶子のモンマス公[[ジェームズ・スコット (モンマス公)|ジェームズ・スコット]]に、大蔵卿はチャールズ2世の側近[[トマス・クリフォード (初代クリフォード男爵)|トマス・クリフォード]]に、アルベマール公位は1人息子の[[クリストファー・ンク (第2代アルベマール公)|クリストファー・ンク]]にそれぞれ受け継がれたが、[[1688年]]にクリストファーに子供が無く死去、ンク家とアルベマール公位は消滅した。後にアルベマール伯位が新設され、[[アーノルド・ヴァン・ケッペル (初代アルベマール伯)|アーノルド・ヴァン・ケッペル]]が叙爵された。
 
== 脚注 ==
58行目:
{{succession box | title=[[第一大蔵卿]] | before=[[トマス・ライアススリー (第4代サウザンプトン伯)|サウザンプトン伯]] | after=[[トマス・クリフォード (初代クリフォード男爵)|クリフォード男爵]] | years=1667年 - 1670年}}
{{s-reg|en}}
{{succession box | title=[[アルベマール公]] | before=新設 | after=[[クリストファー・ンク (第2代アルベマール公)|クリストファー・ンク]] | years=1660年 - 1670年}}
{{s-end}}
{{Normdaten|TYP=p|GND=117600547|VIAF=12299115|LCCN=n/50/036273}}