「清教徒革命」の版間の差分

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軍の弱体化を狙う政府内の動きに、第五王国派や平等派、そして兵士たちは反感を募らせていき、請願や抗議行動を活発化させていった。自らの支持基盤が軍であることを知っていたクロムウェルは、こうした動きにやむなく[[1658年]][[2月4日]]議会を解散し、軍から忠誠をとりつけた。しかし議会を解散したことによって、いままでの反乱分子だけでなく独立派なども反対勢力にまわり、軍以外に支持基盤を見出せない状況に追い込まれていた。そんな中クロムウェルがインフルエンザにかかり、[[1658年]]の彼が名声を得た日と同じ[[9月3日]]世を去った。
 
後を継いだ3男の[[リチャード・クロムウェル]]は無能ではなかったといわれるが、またも財政問題から議会を開かざるを得ない状況に追い込まれていた。また、オリバー・クロムウェルという核を失って、再度ひらかれた議会と軍の対立はもはや覆いがたくなった。選挙資格や選挙区の区割りを元に戻して行われた選挙から選ばれた議会には長老派と党派抗争をも復活させた。そしてクーデターによる議会の解散、ランプ議会の復活という変遷をへて、限界を悟ったリチャードは引退を決意した。クロムウェルを失ったことは軍隊をも四分五裂させたが、そこに[[ジョージ・ンク (初代アルベマール公)|ジョージ・ンク]]が率いるスコットランド軍の侵攻が重なった。
 
チャールズ2世はこの好機を逃さず、[[1660年]][[4月4日]]'''ブレダ宣言'''<sup>註</sup>を発して復位を促した。混乱と内紛にうんざりしていた議員や国民の圧倒多数によってこれは支持され、[[5月7日]]、宣言を受諾する使節がオランダに向けて出航していった。
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