「英蘭戦争」の版間の差分

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当時オランダの造船能力は世界最高水準にあり、オランダ製の大型軍艦は既に輸出商品として確立されていたが、常設の大艦隊を保有しない方針であること、小型艦中心のオランダ艦隊は大型艦中心のスペイン艦隊に常に勝利し続けたこと、通商ルートの保護のためには小型艦の数をそろえたほうが便利等の理由により、[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]政治家たちは大型軍艦建造を承認しなかった。また、オランダの沿岸は水深が浅いため、喫水が深くなる大型艦が運用しづらいというどうしようもない事情もあった。
 
これに対してイングランド側はよく装備された大型軍艦を投入、[[単縦陣]]という戦術でオランダ海軍と拮抗した。[[ヨハン・デ・ウィット]]ら一部の進歩的政治家や現場の海軍士官たちは大型艦の必要性に気づいていたが、対応は遅れた。オランダの[[マールテン・トロンプ]]提督は優勢なイングランド海軍に対して奮戦したが、装備の差はどうすることもできず、1652年と[[1653年]]で[[ロバート・ブレイク]]率いるイングランド海軍と対戦、[[ドーバーの海戦]]や[[ケンティッシュ・ノックの海戦]]で敗北しながら[[ダンジュネスの海戦]]で勝利したが、対するイングランドは[[ポートランド沖海戦]]で勝利、重傷を負ったブレイクと交代した[[ジョージ・ンク (初代アルベマール公)|ジョージ・ンク]]が[[ガッバードの海戦]]でオランダ海軍を破り、[[スヘフェニンゲンの海戦]]でトロンプは戦死してオランダはイギリス海峡の制海権を失い、オランダ船団は[[スコットランド]]の北を大きく迂回してオランダ本国に帰国しなければならなかった。
 
イギリス海軍はオランダ諸港の封鎖を続け、貿易立国のオランダは大打撃を受けたと言われているが、本当のところは大した損害は蒙っていない。イングランドの[[護国卿]]となっていたクロムウェルは、理想主義的なプロテスタント英蘭の対等な合邦論を唱え、1654年に和議に応じ[[ウェストミンスター条約]]が成立、戦争は終わった<ref>友清、P22 - P24、小林、P174 - P187。</ref>。
イングランド海軍はチャールズ2世の弟で海軍卿の[[ヨーク公]][[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ]](後のジェームズ2世)と、ヨーク公の従兄の[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]、共和政でイングランド海軍の提督だった[[サンドウィッチ伯爵]][[エドワード・モンタギュー (初代サンドウィッチ伯爵)|エドワード・モンタギュー]]が指揮を執っていた。オランダは[[ミヒール・デ・ロイテル]]がトロンプの後任の司令官として海軍を率いてイングランド海軍と交戦、トロンプの息子[[コルネリス・トロンプ]]はロイテルの部下として戦争に加わった。
 
1665年、ヨーク公率いるイングランド海軍は[[ローストフトの海戦]]で勝利したが、ヨーク公はチャールズ2世の後継者でもあるため、万が一の危険を恐れたチャールズ2世の命令で後方に回され、サンドウィッチが不正疑惑で左遷されると、第一次英蘭戦争で活躍したンクが復帰してルパートと共に戦った。
 
[[1666年]]、[[フランス王国|フランス]]がオランダと同盟を結んで宣戦布告したことを知ったイングランドは、ルパート艦隊をフランス艦隊に差し向けたが、戦力を分散したままオランダ海軍に遭遇、ンクはオランダ海軍より少ない艦隊で交戦する羽目になった([[4日海戦]])。[[6月11日]]から[[6月14日|14日]]([[旧暦]]では[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]から[[6月4日 (旧暦)|4日]])までの対戦でイングランド海軍は大損害を受けて敗北したが、オランダ海軍もンクの奮戦で被害が大きく消耗戦に終始した。7月に起こった[[聖ジェイムズ日の海戦]]では、イングランド海軍は前回の反省からンクとルパートが共同戦線を張りオランダ海軍と対決、勝利を飾った。
 
しかし、この戦争が始まるとイングランドでは[[ペスト]]が流行したり、[[ロンドン大火]]が起こったりして財政難に陥り厭戦気分が漂った。翌[[1667年]]、和平を考えていたデ・ウィットはロイテルと兄[[コルネリス・デ・ウィット]]を乗せたオランダ艦隊を[[テムズ川]]に侵入させて[[チャタム]]周辺に停泊中の軍艦を焼き討ちにし、イングランド艦隊総旗艦[[ネイズビー (戦列艦)|ロイヤル・チャールズ]]を含めた数隻を捕獲した([[メドウェイ川襲撃]])。
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