「チャールズ2世 (イングランド王)」の版間の差分

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=== 王政復古 ===
[[1658年]]にオリバー・クロムウェルが死去すると、息子の[[リチャード・クロムウェル]]が後を継いだが、混乱を収拾できずに1659年に辞任、スコットランド駐留軍の司令官[[ジョージ・ンク (初代アルベマール公)|ジョージ・ンク]]がスコットランドから進軍して[[1660年]][[3月16日]]に[[イギリスの議会|イングランド議会]]を解散、チャールズら[[王党派]]と連絡を取り復帰を要請した。これを見てチャールズはブリュッセルからオランダの[[ブレダ (オランダ)|ブレダ]]に移り[[4月4日]]に[[ブレダ宣言]]を発して復位を提案、この宣言が[[4月25日]]に選挙で王党派が多数派になった仮議会に受諾され([[5月1日]])、チャールズは5月29日に[[ロンドン]]に入城してイングランド王チャールズ2世となった。
 
即位直後に王党派への論功行賞が行われ、ンクはアルベマール公・大将軍に就任、側近の[[エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)|エドワード・ハイド]]は[[クラレンドン伯爵]]・[[大法官]]となり、[[エドワード・モンタギュー (初代サンドウィッチ伯爵)|エドワード・モンタギュー]]は[[サンドウィッチ伯爵]]に叙爵、他の家臣にも叙爵・官位の授与が行われた。また、仮議会はブレダ宣言に基づく政治に取り組み、恩赦で議会派への罪は問われず(チャールズ1世の裁判に関わった人物は除く)、革命中に没収された土地の回復も行われ、チャールズ2世の財源は[[中世]]以来の国王大権の1つで、革命政府の最重要施策の1つであった[[徴発権]]が廃止される代わりにクロムウェルが導入していた[[消費税]]・関税を王室収入に充てる事に決定、チャールズ2世も同意したことで宣言の多くは実現した。しかし、[[イングランド国教会]]以外の宗教の寛容は認められなかった。
 
12月に仮議会は解散、[[1661年]][[4月23日]]に[[ウェストミンスター寺院]]でチャールズ2世は正式に戴冠式を挙行、同じ日に戴冠式に先立ってウェストミンスター寺院に埋葬されていたクロムウェルの遺体は国王殺しの罪で剖棺斬屍され、晒しものとされた。[[5月8日]]に議会が召集され、「[[騎士議会]]」(1661年5月8日 - [[1679年]][[1月24日]])と呼ばれる議会が治世の大半に開かれることになった<ref>今井、P239 - P243、友清、P40 - P49。</ref>。
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