「ルパート (カンバーランド公)」の版間の差分

m
編集の要約なし
m
[[ファイルimage:Prince Rupert, Count Palatine.jpg|thumb|カンバーランド公ルパート([[ピーター・レリー]]画、1670年)]]
[[ファイルimage:Prince Rupert - 1st English Civil War.jpg|thumb|愛犬のプードル「ボーイ」を連れて戦うプリンス・ルパート]]
'''ルパート王子、ライン宮中伯バイエルン公初代カンバーランド公初代ホルダネス伯ルパート'''<ref>[[イギリス]]では'''プリンス・ルパート・オブ・ザ・ライン'''(Prince({{lang|en|Prince Rupert of the Rhine)Rhine}})、'''プリンス・ルパート・オブ・ザ・パラティニット'''(Prince({{lang|en|Prince Rupert of the Palatinate)Palatinate}})と呼ばれる。ドイツではそれぞれ'''プリンツ・ループレヒト・フォン・ライン'''(Prinz Ruprecht von Rhein)、'''プリンツ・ループレヒト・フォン・デア・プファルツ'''(Prinz({{lang|de|Prinz Ruprecht von der Pfalz)Pfalz}})となる。単に'''プリンス・ルパート'''とも呼ばれる。</ref>('''{{lang-en-short|Prince Rupert, Count Palatine of the Rhine, Duke of Bavaria, 1st Duke of Cumberland, 1st Earl of Holderness'''}}, [[ガーター勲章|KG]], [[枢密院 (イギリス)|PC]], [[王立協会|FRS]], [[1619年]][[12月17日]]、[[プラハ]] - [[1682年]][[11月29日]]、[[ロンドン]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の軍人。同国の王党派([[騎士党]])の中心的存在であり、[[イングランド内戦]]では国王軍の指揮官を務めた。イングランドにおいて[[カンバーランド公]]に叙され、後に[[海軍本部 (イギリス)|海軍卿]]を務め海軍の指揮も執った。
 
[[プファルツ選帝侯領|プファルツ選帝侯]]兼[[ボヘミア王国|ボヘミア]][[ボヘミア君主一覧|王]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]と妃[[エリザベス・ステュアート]]([[イングランド君主一覧|イングランド王]][[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]([[スコットランド王国|スコットランド]][[スコットランド君主一覧|王]]ジェームズ6世)の娘)の三男。ドイツ名は'''ループレヒト'''(Ruprecht)({{lang|de|Ruprecht}})
 
兄はプファルツ選帝侯[[カール1世ルートヴィヒ (プファルツ選帝侯)|カール1世ルートヴィヒ]]。姉[[エリーザベト・フォン・デア・プファルツ (1618-1680)|エリーザベト]]は哲学者で、[[ルネ・デカルト]]の愛弟子として知られる。妹の一人[[ルイーゼ・ホランディーネ・フォン・デア・プファルツ|ルイーゼ・ホランディーネ]]は画家となった。末の妹[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ|ゾフィー]]は[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]][[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]の妃で、この2人の息子である[[ハノーヴァー朝]]初代のイギリス王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]はルパートの甥に当たる。また、イングランド王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]・[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]兄弟は母方の従弟で、イングランド王兼[[オランダ総督]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]は父方では[[はとこ|又従弟]]、母方では従甥に当たる。
[[1665年]]から始まった第二次英蘭戦争では、チャールズ2世の弟で海軍卿の[[ヨーク公]]ジェームズ(後のジェームズ2世)、[[サンドウィッチ伯爵]][[エドワード・モンタギュー (初代サンドウィッチ伯爵)|エドワード・モンタギュー]]と共にイングランド海軍を率いてオランダ海軍と対戦、[[ローストフトの海戦]]ではヨーク公・サンドウィッチと協議した上で[[単縦陣]]で相対し、敵より素早く反転したことで隊列の整わないオランダ艦隊を攻撃して大勝した。
 
翌[[1666年]]、ヨーク公に代わって海軍の指揮を執ったアルベマール公[[ジョージ・ンク (初代アルベマール公)|ジョージ・ンク]]と共同で海軍指揮を任され、6月の[[4日海戦]]では政府からの命令でフランス海軍の監視に向かったため主戦場への到着が遅れるという失態を演じたが、7月の[[聖ジェイムズ日の海戦]]はンクと共同指揮を執りオランダ海軍に勝利した。ただし、この勝利は決定的でないため戦争は終わらず、翌[[1667年]]のオランダ海軍のイングランド奇襲([[メドウェイ川襲撃]])を経て、[[ブレダの和約]]で終戦に向かうことになる<ref>友清、P58 - P63、P65 - P71、小林、P199 - P206。</ref>。
 
[[1672年]]、フランス王ルイ14世が[[オランダ侵略戦争]]を始めると、[[ドーヴァーの密約]]でルイ14世と同盟を結んでいたチャールズ2世もオランダへ宣戦布告、第三次英蘭戦争が勃発した。海軍はヨーク公の指揮にあったが、翌[[1673年]]にヨーク公が[[カトリック教会|カトリック]]であったため辞任に追い込まれると、ルパートが海軍卿としてイングランド海軍を率いる立場となった。オランダ侵攻軍の上陸計画を遂行する役割を命じられていたが、侵攻軍の司令官[[フレデリック・ションバーグ (初代ションバーグ公爵)|フレデリック・ションベール]]と対立したり、味方のフランス海軍が消極的だったことが一因で、[[スホーネヴェルトの海戦]]、[[テセル島の海戦]]で連敗してオランダ侵略は不可能となった。戦後、海軍はイングランドに収容され、オランダ侵攻軍は解散、翌[[1674年]]にチャールズ2世は[[ウェストミンスター条約]]を締結してオランダと和睦した<ref>友清、P166 - P172、小林、P215 - P219。</ref>。
165

回編集