「イングランド共和国」の版間の差分

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もしもクロムウェルの息子[[リチャード・クロムウェル]]がオリヴァーの政策を維持できる能力があったならば、護国卿政はその後も続いた可能性がある。リチャードの主な弱点は、ニューモデル軍の信任を得られなかったことにある。
 
リチャードの就任から7ヶ月後、ニューモデル軍の長老派はリチャードを追放し、[[1659年]][[5月6日]]に残部議会を再招集した。[[チャールズ・フリートウッド]]が安全保障委員会(Committee of Safety)と国家評議会のメンバー、および軍の7人の理事の一人に選ばれたが、実質的な権力は軍の権威を軽視する、内戦前の流れをくむ議会に握られていた。[[1659年]][[8月12日]]、共和国は[[ジョン・ランバート]]将軍と数人の士官を罷免し、代わりに下院議長の権限の元、フリートウッドを軍の評議会の長官として任命した。その次の日ランバートは議会を閉鎖して議員を締め出した。8月26日、フリートウッドとランバートをメンバーとする安全保障委員会が設立された。ランバートはイングランド・スコットランド両軍における少将に任命され、フリートウッドは将軍となった。安全保障委員会の強い命令によってランバートはスコットランド方面軍司令官であった[[ジョージ・ンク (初代アルベマール公)|ジョージ・ンク]]と会い、議会との折り合いをつけるように命令された。
 
ジョージ・ンク将軍はオリバー・クロムウェルの下で任命されたスコットランド方面軍司令官であり、スコットランドから軍を南下させているところであった。ランバートの軍は彼を見捨てて逃亡をはじめ、ランバートはほぼ単独で[[ロンドン]]へと戻った。1660年2月21日、ンクはプライドのパージによって「隠遁していた」長老派を復帰させ、新しい議会のための準備を整えさせた。フリートウッドは指揮権を奪われ、議会の開催前に出頭し、みずからの行為に責任を取るよう命じられた。ランバートは[[1660年]][[3月3日]]に[[ロンドン塔]]へと送られたが、1ヶ月後には脱獄した。ランバートは共和国側に立って内戦を再燃させるべく、グッド・オールド・コーズ(Good Old Cause:ニューモデル軍の正当化のための、共和制賛美論)の支持者に対し、エッジヒルの戦いに参加するよう呼びかけた。だがランバートは、恩赦目当てに裏切ったリチャード・インゴルズビー大佐によって再び捕まった。長期議会は[[1660年]][[3月16日]]に解散した。
 
[[1660年]][[4月4日]]、[[チャールズ2世]]は[[ブレダ宣言]]を発し、イングランド復位の条件を提示した。ンクは定期議会を組織し、4月25日に初会合を行った。5月8日、議会はチャールズ2世を、チャールズ1世の処刑以来初の正式な君主であると認めた。<ref>[http://www.british-history.ac.uk/report.asp?compid=26183#s2 House of Commons Journal Volume 8, 8 May 1660]</ref>これをうけて、5月25日、チャールズ1世は追放から帰還し<ref name="pepysdiary23">[http://www.pepysdiary.com/archive/1661/04/23/index.php Pepys Diary 23 April 1661].</ref>、5月23日にロンドン入りした。「陛下の帰還を祝うため」[[5月29日]]は俗にオークアップルの日(Oak Apple Day)と呼ばれる祝日になった<ref>[http://www.british-history.ac.uk/report.asp?compid=26202#s3 House of Commons Journal Volume 8, 30 May 1660]</ref>。チャールズ2世は[[1661年]][[4月23日]]、[[ウェストミンスター寺院]]で戴冠した。
 
==改革派対保守派==
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