「コールドストリームガーズ」の版間の差分

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{{独自研究|date=2012年9月}}
[[Fileimage:Coldstream Guards sentry - 20090804.jpg|thumb|right|200px|衛兵任務中のコールドストリームガーズ連隊兵士。]]
'''コールドストリームガーズ'''( [[:{{lang-en:Coldstream Guards-short|Coldstream Guards]]/Coldstream Regiment of Foot Guards)Guards}})[[イングランド]]の[[連隊]]。[[清教徒革命|ピューリタン革命]]時代の1650年に[[イングランド共和国]]の[[歩兵連隊]]として発足し、[[イングランド内戦]]では[[陸軍]]、第一次[[英蘭戦争]]では[[海軍]]の部隊として戦い、[[王制復古]]後[[イングランド王国]]の[[近衛兵 (イギリス)|近衛]]歩兵連隊となった。そして、現在でも[[イギリス陸軍]]の[[歩兵]]部隊として海外に派遣され、或は[[近衛兵 (イギリス)|近衛兵]]として[[ロンドン]]での衛兵や儀仗任務を行なっており、継続して任務に就いている連隊としては世界最古である。
 
日本語では'''”コールドストリームガーズ連隊”'''、'''”コールドストリーム近衛連隊”'''、'''”コールドストリーム近衛歩兵連隊”'''、'''”近衛コールドストリーム連隊”'''、'''”近衛コールドストリーム歩兵連隊'''”等の表記が見られる。また、[[イギリス]]では18世紀から19世紀にかけて連隊を番号で呼んでおり、その頃は'''''2nd Regiment of Foot Guards'''''とも呼ばれていた。このことから、その時代の記述ばかりでなく、それ以降の時代についても特に戦史関係の資料等では、'''”近衛歩兵第2連隊”'''或は'''”第2近衛歩兵連隊”'''等と表記されることもあり、このような資料の作戦地図にある[[軍隊符号]]で'''”2G”'''と表記されている歩兵連隊もコールドストリームガーズのことを指す。一方、英語の記述ではこの時代でも”2nd”ではなく、当時あった3個の近衛歩兵連隊が”1st, Coldstream, 3rd Foot Guards”と表記されることも珍しくない
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== 歴史 ==
[[Image:George_Monck_1st_Duke_of_Albemarle_Studio_of_Lely.jpg|thumb|right|200px|コールドストリームガーズ連隊の創立者ジョージ・ンク。]]
[[イギリス陸軍]]で最初の常備軍である、[[オリバー・クロムウェル]]が組織したニューモデル・アーミー([[:en:New Model Army|New Model Army]])の連隊として、1650年4月23日に[[ジョージ・ンク (初代アルベマール公)|ジョージ・ンク]]大佐([[:en:George Monck, 1st Duke of Albemarle|George Monck]])が[[ベリック・アポン・ツイード|バーウィック]]で設立した。当時の名前は'''ンクの歩兵連隊(Monck's Regiment of Foote)'''であった。”ンクの歩兵連隊”は、1647年にアーサー・ヘジルリッジ卿([[:en:Arthur Haselrig|Arthur Hazelrigg]])が[[ニューカッスル・アポン・タイン|ニューカッスル]]で創立した連隊からの5個中隊と、バーウィックで創設されたジョージ・フェンウィック大佐([[:en:George Fenwick|George Fenwick]])の連隊からの5個中隊を合わせて編成された。
 
ジョージ・ンクは[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]時代に失脚し、ピューリタン革命時には議会派に属していた軍人であり、「[[イングランド内戦]]に於ける最も優れた軍人の一人<ref>[[#Young|Young]] p 10</ref>」とも評されている。
 
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=== イングランド共和国 ===
[[Fileimage:Cromwell at Dunbar Andrew Carrick Gow.jpg|thumb|right|300px|ダンバーの戦い。]]
ンクの歩兵連隊”は、1650年9月3日のダンバーの戦い([[:en:Battle of Dunbar (1650)|Battle of Dunbar]])に議会派として参加し、初陣を飾った。この戦いに議会派が勝利したことによって、[[スコットランド]]は議会派に制圧された。この戦いには[[スコッツガーズ]]の前身である[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]](当時は[[スコットランド王]])の護衛歩兵隊(Lyfe Guard of Foot)が王党派として加わっていたが、更に翌1651年の”[[ウスター]]の戦い”([[:en:Battle of Worcester|Battle of Worcester]])にも敗れたため、チャールズ2世は大陸へ亡命し、護衛隊は解散させられた。そのため、[[スコッツガーズ]]は1642年創立とされているが、再建される1661年まで廃止状態だったため、”最古の連隊”とは認められていない。<ref>[http://www.scotsguards.co.uk/history.htm 英政府サイト・スコッツガーズの歴史]</ref>
 
1652年に第一次[[英蘭戦争]]が始まるとンク大佐は”ジェネラル・アット・シー”(General at Sea){{#tag:ref|革命の際、議会派に積極的に加わった提督が殆ど居らず、イングランド共和国では海軍を指揮する人材が不足したため、議会派の大佐クラスの陸軍軍人をジェネラル・アット・シーに任命し、艦隊の指揮をさせた。この制度は王政復古後も暫く続いた<ref>小林 p 172-173</ref>。|group=注}}に任命され、戦隊を率いてオランダ艦隊と戦うことになった。そして、ポートランド沖海戦([[:en:Battle of Portland|Battle of Portland]])で先任のジェネラル・アット・シーであった[[ロバート・ブレイク]]が負傷した後は、イングランド共和国艦隊の総司令官としてガッバードの海戦([[:en:Battle of the Gabbard|Battle of the Gabbard]])及びスヘフェニンゲンの海戦([[:en:Battle of Scheveningen|Battle of Scheveningen]])の指揮を執った<ref>小林 p 174-191</ref>。この間、”ンクの歩兵連隊”はンク将軍に従って艦隊に乗組み、一連の海戦を戦った<ref>[http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/3484.aspx 英政府サイト]</ref>。
 
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[[File:MerryMonarch.png|thumb|right|200px|チャールズ2世]]
[[ファイル:Band Trooping the Colour, 16th June 2007.jpg|thumb|right|200px|2007年のトゥルーピング・ザ・カラーで行進する近衛歩兵連隊軍楽隊。グレナディアガーズ軍楽隊が手前(擲弾の襟章)なのに対し、コールドストリームガーズは一番奥(帽子に赤い羽根飾り)に位置している。]]
1660年、[[王政復古]]の宣言がされるとンク将軍は王党派に転じ、後任のジェネラル・アット・シーである[[エドワード・モンタギュー (初代サンドウィッチ伯爵)|エドワード・モンタギュー]]([[:en:Edward Montagu, 1st Earl of Sandwich|Edward Montagu]]/後に初代[[サンドウィッチ伯爵]])に対し、艦隊を率いて国王を亡命先の[[オランダ]]へ迎えに行くよう指示した。エドワード・モンタギューはこの頃地方に隠遁していたが、ロンドンに残していた執事(当時)の[[サミュエル・ピープス]]{{#tag:ref|後にネービー・ボード([[:en:Navy Board|Navy Board]])長官や[[海軍本部]]書記官([[:en:Secretary to the Admiralty|Secretary to the Admiralty]])と言った公職を歴任し、「イギリス海軍の父」とも呼ばれている。ネービー・ボード長官になっても執事としての仕事を続けており、彼の日記には「役所の帰りにモンタギュー家の経理を処理した」と言った記述が見られる<ref>[[#臼田|臼田]]</ref>。|group=注}}を通じて議会の動向を把握しており、ンクに従ってイングランド艦隊を掌握し、オランダへ向かった<ref>小林 p 192-194</ref>。
 
ンクの歩兵連隊”はスコットランドのコールドストリーム([[:en:Coldstream|Coldstream]])に駐留していたが、スコットランドへ上陸したチャールズ2世と合流し、ロンドン入城に同行した。そのため、現在でも募兵の際はこの時に通ったイングランド側の沿道地域出身者を優先採用している。また、現部隊名の”コールドストリーム”はこの頃付いたあだ名である<ref>[[#Griffin|Griffin]] p 58</ref>。
 
この年、”ンクの騎馬護衛隊”(Monck's Life Guards)が第2(クィーンズ)近衛騎兵隊(2nd(Queen's) Troop of Horse Guards)となった。この騎兵隊は後に他の近衛騎兵隊と統合されて[[ライフガーズ]]連隊となる。翌1661年、”ンクの歩兵連隊”も近衛連隊となり、'''”ロードジェネラルズ近衛歩兵連隊”'''(The Lord General's Regiment of Foot Guards)となった。また、1664年には”コールドストリーム連隊”の兵士500名が海上勤務に転じ、'''”デューク・オブ・ヨーク・アンド・アルバニー海上歩兵連隊”'''(Duke of York and Albany's Maritime Regiment of Foot)が編成された。この連隊はイギリスで初めての艦上勤務を専門とする歩兵部隊であり、[[イギリス海兵隊]]の母体となった<ref>[http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/3484.aspx 英政府サイト]</ref>。
 
近衛歩兵連隊としては既に、チャールズ2世がウスターの戦い後の1656年に[[ブルッヘ]]で創設した”ロード・ウェントワース近衛歩兵連隊”([[:en:Lord Wentworth's Regiment|Lord Wentworth's Foot Guards]]/Royal Regiment of Guards)と1660創立のジョン・ラッセル近衛歩兵連隊([[:en:John Russell's Regiment of Guards|John Russell's Foot Guards]])があり、両連隊が1665年に統合されて”近衛歩兵第1連隊”(1st Regiment of Foot Guards)(後の[[グレナディアガーズ]])とされた。しかし、これらの連隊より古い”コールドストリーム連隊”の兵士は、その下位に位置付けられることを認めることが出来なかった。チャールズ2世が”近衛第2連隊”と呼んだところ、”第2”とされることを兵士達が拒否して命令に従わなかったため、ンク将軍の進言に従って”コールドストリーム近衛連隊”と呼んだところ命令に従ったという逸話もある<ref>[[#打木|打木]] p 4</ref>。
 
ンク将軍が死去した1670年、'''”近衛歩兵第2連隊”'''(2nd Regiment of Foot Guards)となったが、”第2”とされる抵抗感から、通称であった'''”コールドストリーム近衛歩兵連隊”'''(Coldstream Regiment of Foot Guards)が公式に使われるようになった<ref>[[#Griffin|Griffin]] p 59-60</ref>。そして、この様な経緯から、'''''”Nulli Secundus”'''''(何物の2番目でもない=何物にも劣る事無し)が連隊のモットーとなっている<ref>[[#打木|打木]] p 4</ref><ref>[[#Griffin|Griffin]] p 58</ref>。また、現在でもグレナディアガーズへの対抗意識は強く、[[イギリス陸軍]]に於ける連隊序列はグレナディアガーズの次だが、近衛歩兵連隊が整列する際はグレナディアガーズの隣には並ばず、反対側の端に位置する<ref>[[#石井・横山|石井・横山]] p 32</ref>。
 
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