「ロマノス1世レカペノス」の版間の差分

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[[917年]]、[[コンスタンティノス7世]]の母で摂政のゾエ・カルボノプシナが[[ブルガリア帝国]]と戦って敗れ、その権威が失墜すると、ロマノスは919年の3月にクーデターを起こしてゾエ・カルボノプシナを追放。娘ヘレネをコンスタンティノスに嫁がせてその義父となり、9月には副皇帝、12月には共同皇帝となり、帝国の実権を掌握した。そして920年12月には、自ら正皇帝として即位し、コンスタンティノス7世を共同皇帝へ格下げしたのである。
 
即位後は、巧みな婚姻策によって貴族との結びつきを強化し、レカペノス家による帝位の世襲化を図った。また、宗教上の政策から[[教会]]との関係も深め、その経緯から[[933年]]にはロマノス1世の末子・[[テオフュラクトス]]が総主教となっている。対外においては、[[ブルガリア帝国]]の[[シメオン1世]]が侵攻して来るが、ロマノス1世は[[クロアチア人|クロアト族]]と結びあうことでこれを撃退し、[[927年]]にシメオンが死去すると、ブルガリアと和睦を結んで帝国西方の国境を安泰なものとした。一方、東方に対しても名将・[[{{仮リンク|ヨハネス・クルクアス]]|en|John Kourkouas}}のもと、イスラム勢力に対して攻勢をかけ、東方に大きく勢力を拡大することに成功したのである。
 
[[941年]]、[[:en:Rus'–Byzantine War (941)]]で[[キエフ大公国]]に[[コンスタンチノープル]]が攻撃された。
 
[[File:Romanus I with Christopher, solidus.jpg|thumb|right|250px|ロマノス1世と息子クリストフォロスの描かれた[[ソリドゥス金貨]]。]]