「コールドストリームガーズ」の版間の差分

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[[image:Coldstream Guards sentry - 20090804.jpg|thumb|right|200px|衛兵任務中のコールドストリームガーズ連隊兵士。]]
'''コールドストリームガーズ'''( {{lang-en-short|Coldstream Regiment of Foot Guards}})は、[[イングランド]]の[[連隊]]。[[清教徒革命|ピューリタン革命]]時代の1650年に[[イングランド共和国]]の[[歩兵連隊]]として発足し、[[イングランド内戦]]では[[陸軍]]、第一次[[英蘭戦争]]では[[海軍]]の部隊として戦い、[[王制復古]]後[[イングランド王国]]の[[近衛兵 (イギリス)|近衛]]歩兵連隊となった。そして、現在でも[[イギリス陸軍]]の[[歩兵]]部隊として海外に派遣され、或は[[近衛兵 (イギリス)|近衛兵]]として[[ロンドン]]での衛兵や儀仗任務を行なっており、{{要出典範囲|継続して任務に就いている連隊としては世界最古である|date=2012年9月}}
 
{{要出典範囲|日本語では'''”コールドストリームガーズ連隊”'''、'''”コールドストリーム近衛連隊”'''、'''”コールドストリーム近衛歩兵連隊”'''、'''”近衛コールドストリーム連隊”'''、'''”近衛コールドストリーム歩兵連隊'''”等の表記が見られる|date=2012年9月}}。また、[[イギリス]]では18世紀から19世紀にかけて連隊を番号で呼んでおり、その頃は'''''2nd Regiment of Foot Guards'''''とも呼ばれていた。このことから、その時代の記述ばかりでなく、それ以降の時代についても特に戦史関係の資料等では、'''”近衛歩兵第2連隊”'''或は'''”第2近衛歩兵連隊”'''等と表記されることもあり、このような資料の作戦地図にある[[軍隊符号]]で'''”2G”'''と表記されている歩兵連隊もコールドストリームガーズのことを指す。一方、英語の記述ではこの時代でも”2nd”ではなく、当時あった3個の近衛歩兵連隊が”1st, Coldstream, 3rd Foot Guards”と表記されることも珍しくない
<ref>[[#Ian|Ian]]</ref><ref>[[#May|May]] p 7</ref><ref>'''David Morier'''画『'''''Grenadiers, 1st and 3rd Regs. of Foot Guards and Coldstream Guards'''''』(1751-60 画布・油彩 40.7 x 51cm)[http://www.royalcollection.org.uk/egallery/object.asp?category=276&object=405597&row=1179 英国ロイヤルコレクション]</ref>。
__TOC__
”マンクの歩兵連隊”は、1650年9月3日のダンバーの戦い([[:en:Battle of Dunbar (1650)|Battle of Dunbar]])に議会派として参加し、初陣を飾った。この戦いに議会派が勝利したことによって、[[スコットランド]]は議会派に制圧された。この戦いには[[スコッツガーズ]]の前身である[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]](当時は[[スコットランド王]])の護衛歩兵隊(Lyfe Guard of Foot)が王党派として加わっていたが、更に翌1651年の”[[ウスター]]の戦い”([[:en:Battle of Worcester|Battle of Worcester]])にも敗れたため、チャールズ2世は大陸へ亡命し、護衛隊は解散させられた。そのため、[[スコッツガーズ]]は1642年創立とされているが、再建される1661年まで廃止状態だったため、”最古の連隊”とは認められていない。<ref>[http://www.scotsguards.co.uk/history.htm 英政府サイト・スコッツガーズの歴史]</ref>
 
1652年に第一次[[英蘭戦争]]が始まるとマンク大佐は”ジェネラル・アット・シー”(General at Sea){{#tag:ref|革命の際、議会派に積極的に加わった提督が殆ど居らず、イングランド共和国では海軍を指揮する人材が不足したため、議会派の大佐クラスの陸軍軍人をジェネラル・アット・シーに任命し、艦隊の指揮をさせた。この制度は王政復古後も暫く続いた<ref>小林 p 172-173</ref>。|group=注}}に任命され、戦隊を率いてオランダ艦隊と戦うことになった。そして、ポートランド沖海戦([[:en:Battle of Portland|Battle of Portland]])で先任のジェネラル・アット・シーであった[[ロバート・ブレイク]]が負傷した後は、イングランド共和国艦隊の総司令官としてガッバードの海戦([[:en:Battle of the Gabbard|Battle of the Gabbard]])及びスヘフェニンゲンの海戦([[:en:Battle of Scheveningen|Battle of Scheveningen]])の指揮を執った<ref>小林 p 174-191</ref>。この間、”マンクの歩兵連隊”はマンク将軍に従って艦隊に乗組み、一連の海戦を戦った<ref>[http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/3484.aspx 英政府サイト]</ref>。{{リンク切れ|date=2012年09月}}
</ref>。
 
<gallery>
”マンクの歩兵連隊”はスコットランドのコールドストリーム([[:en:Coldstream|Coldstream]])に駐留していたが、スコットランドへ上陸したチャールズ2世と合流し、ロンドン入城に同行した。そのため、現在でも募兵の際はこの時に通ったイングランド側の沿道地域出身者を優先採用している。また、現部隊名の”コールドストリーム”はこの頃付いたあだ名である<ref>[[#Griffin|Griffin]] p 58</ref>。
 
この年、”マンクの騎馬護衛隊”(Monck's Life Guards)が第2(クィーンズ)近衛騎兵隊(2nd(Queen's) Troop of Horse Guards)となった。この騎兵隊は後に他の近衛騎兵隊と統合されて[[ライフガーズ]]連隊となる。翌1661年、”マンクの歩兵連隊”も近衛連隊となり、'''”ロードジェネラルズ近衛歩兵連隊”'''(The Lord General's Regiment of Foot Guards)となった。また、1664年には”コールドストリーム連隊”の兵士500名が海上勤務に転じ、'''”デューク・オブ・ヨーク・アンド・アルバニー海上歩兵連隊”'''(Duke of York and Albany's Maritime Regiment of Foot)が編成された。この連隊はイギリスで初めての艦上勤務を専門とする歩兵部隊であり、[[イギリス海兵隊]]の母体となった<ref>[http://www.army.mod.uk/infantry/regiments/3484.aspx 英政府サイト]{{リンク切れ|date=2012年09月}}</ref>。<!--要・別の出典-->
 
近衛歩兵連隊としては既に、チャールズ2世がウスターの戦い後の1656年に[[ブルッヘ]]で創設した”ロード・ウェントワース近衛歩兵連隊”([[:en:Lord Wentworth's Regiment|Lord Wentworth's Foot Guards]]/Royal Regiment of Guards)と1660創立のジョン・ラッセル近衛歩兵連隊([[:en:John Russell's Regiment of Guards|John Russell's Foot Guards]])があり、両連隊が1665年に統合されて”近衛歩兵第1連隊”(1st Regiment of Foot Guards)(後の[[グレナディアガーズ]])とされた。しかし、これらの連隊より古い”コールドストリーム連隊”の兵士は、その下位に位置付けられることを認めることが出来なかった。チャールズ2世が”近衛第2連隊”と呼んだところ、”第2”とされることを兵士達が拒否して命令に従わなかったため、マンク将軍の進言に従って”コールドストリーム近衛連隊”と呼んだところ命令に従ったという逸話もある<ref>[[#打木|打木]] p 4</ref>。
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