「後光明天皇」の版間の差分

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天皇は武芸を学ぶなど激烈で直情径行的な性格の持ち主であり、反幕府的な態度をとっていたともいわれるが、その反面で幼少から学問を好み、特に[[儒学]]や漢学を尊重して、これを奨励した。初め[[明経道|明経家]]の[[伏原賢忠]]から『[[易経|周易]]』の伝授を受け、後に[[朱子学|程朱学派]]に傾倒すると、[[二条康道]]の推薦で民間から[[朝山素心]]を招き入れて[[進講]]を受けている。[[慶安]]4年([[1651年]])9月には、[[儒者]][[藤原惺窩]]の功績を称えてその文集に勅序を与えた。天皇が庶民の書に序文を賜うことは、これが最初という。また、[[漢詩文]]の詩作を好み、御集に『鳳啼集』がある。このような[[経学]]への傾倒に対し、和歌や『[[伊勢物語]]』・『[[源氏物語]]』などの古典を柔弱として斥ける風もあったが、在位中は朝儀復興に心を砕いており、[[正保]]3年([[1646年]])に[[伊勢神宮|神宮]][[奉幣|例幣]]の儀を再興した。[[釈奠]]や[[大学寮]]の復興、服制の改革をも意図していたというが、これらは崩御のために実現しなかった。
 
突然の崩御は武家による[[毒殺]]説もある<ref>[[室鳩巣]]の『[[鳩巣小説]]』によれば、天皇の病状悪化のため、関東から医師を参上させて薬を勧めたが、天皇は服用を拒んだ。しかし、[[京都所司代]]の土井大炊頭が強く勧めたので、やむなく服用したところ、容態が急変したという。文中に毒殺とは明記されないが、それを暗示するかのような表現である。しかし、この記事は[[正徳 (日本)|正徳]]5年([[1715年]])[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]付の鳩巣の手紙によるとあるから、崩御より60年ほど後のものである。しかも、崩御時の所司代は[[板倉重宗]]であり、土井大炊頭という人物は存在しない。また、幕府が天皇の病状悪化を知って医師[[武田道安]]を上洛させたことは事実であるが、天皇は道安出発の前日に崩御している。</ref>一方、前年から体調を崩し、末弟の高貴宮(後の[[霊元天皇]])を[[養子縁組|養子]]に迎えようと廷臣に相談していたとの記録もある<ref>中御門宣順の『宣順公記』承応3年10月17日条によれば、後光明天皇は高貴宮誕生直後に[[掌侍#勾当内侍|勾当内侍]]を通じて幕府が派遣されていた[[禁裏付|禁裏附]][[高木守久]]に相談したところ、高木は将軍(家綱)は「(天皇が)善処されるべき」とおっしゃるであろうから、幕府への勅使派遣は急ぐ必要はないのでは、と回答したという。</ref>。
 
== 逸話 ==