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== 歴史 ==
[[File:Jagiellonowie.png|thumb|rightleft|300px400px|ヤギェウォ朝の諸国]]
記録に残る最初の西スラヴ人の国々は、彼らの生存圏の南方で興った[[サモ帝国]]([[623年]] - [[658年]])、[[モラヴィア王国]]([[833年]] - [[907年]])が知られている。ソルブ人といくつかのほかの西スラヴ部族は早期から神聖ローマ帝国の直接の支配下に入り、19世紀の終期には[[ドイツ人]]によって同化されてしまった。東部に住むポーランド人は[[10世紀]]に自分達の国を作り、20世紀にカシューブ人を同化した。ポーランドは何世紀にもわたり西の隣国と密接な関係を保ち、[[ポーランド王国|ポーランド王]][[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]は[[神聖ローマ皇帝]][[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]から''Frater et Cooperator Imperii''(帝国の兄弟とパートナー)とまで謳われた。チェコ人は10世紀に自分たちの国[[ボヘミア]]を作り、これも後に神聖ローマ帝国に加わった。[[スロヴァキア人]]は10世紀から11世紀にかけて徐々に[[ハンガリー王国]]の支配下に入った。これらの国々と[[リトアニア]]および[[ハンガリー]]を加えた諸国は15世紀終盤にはポーランドの[[ヤギェウォ朝]]の君主を同時に戴く広大かつ緩い国家連合を形成した。チェコ人とスロヴァキア人はともに[[1526年]]以降[[ハプスブルク君主国]]の支配下に入った。